半坪ビオトープの日記

三徳山、文殊堂、地蔵堂


登山道はすぐに土嚢が積まれた急坂となるが、その入口に結界石が立っていて、「忌穢不浄輩禁登山」と書かれている。

木の根っこの道を上ると、正面に古めかしい野際稲荷(十一面観音堂)が建っている。一間社切妻杮葺きの春日造風の建物である。野際稲荷の左手は下山道で進入禁止。右手を上っていくとすぐ、急斜面に木の根が入り組んだカズラ坂となり、両手を使ってよじ上る。

大きな倒木の脇には土嚢がたくさん積まれている。

さながらフィールドアスレチックのように木の根をつかみながら上っていくと、ようやく文殊堂が見えてくる。

文殊堂は懸造となっていて、複雑に組み合わされた材木の異様な姿に、よくもこんな建物を造ったものだと感心させられる。文殊堂の本尊は、文殊師利菩薩で「勝手権現」と呼ばれている。須弥壇扉の飾り金具の銘文から安土桃山時代に南条氏が保護したことが分かっている。

文殊堂の建つ急斜面は、つかみ所のないクサリ坂と呼ばれる岩場で、くさりを手にして一人ずつよじ上っていく。

周囲に廻廊を巡らせているので、一周して三徳山の木々の緑や、三徳谷など周りの景色を眺める。

遠くには日本海や大山も見えるというが、手すりもないので落着かず、どこにあるか見定めることができなかった。内部は通常非公開だが、2006年の草創1300年記念の時だけ、地蔵堂とともに公開されたという。

手すりのない廻廊は、雨を流すため外側に少し傾いていてスリル満点で足がすくむ。

文殊堂から岩伝いによじ上っていくと、間もなく地蔵堂に到着する。地蔵堂の本尊は、子守延命地蔵菩薩で「子守権現」と呼ばれている。文殊堂も地蔵堂投入堂と同じ懸造となっていて、どちらも間口三間に奥行が四間屋根は杮葺きである。文殊堂からは永禄10年(1567)の墨書が発見され、どちらも室町時代後期の建築であることが判明した。