半坪ビオトープの日記

三徳山三佛寺、投入堂


地蔵堂の先も岩場が続くが、脇には白い小花がたくさん咲いていた。おそらくモクセイ科トネリコ属のアオダモ(Fraxinus lanuginose form. serrata)であろう。

その先に、サイコクミツバツツジ(Rhododendron nudipes)が紅紫色の花を咲かせていた。

大岩がごろごろ集まった所に鐘楼堂が建っている。重量2トンもある鐘をどのようにして運び上げたか不思議である。

鐘楼堂の先で、ガマズミの花が咲いているのを見つけた。葉の尖り方からミヤマガマズミ(Viburnum wrightii)と思われる。

馬の背、牛の背と呼ばれる細い岩の道を平均台を渡るように慎重に進んでいくと、やや開けた所で崖が見えてくる。崖のくぼみにはいくつかの建物が見える。右手には小さな納経堂、左には観音堂がある。

納経堂は、一間社切妻杮葺きの春日造風の建物で、投入堂と同じく平安時代後期の建造と古く、国の重文に指定されている。お堂の中には、修行僧の写経が納められている。

崖下に大き目の観音堂と、その左奥に小さな元結掛堂が建っている。どちらも正保5年(1648)に、鳥取藩主池田光仲により再建されていて、県の重文に指定されている。観音堂は桁行三間、梁間三間、平屋建入母屋銅板葺きで、左右の屋根に千鳥破風が付く。本尊は十一面観世音菩薩である。

観音堂を右に回り込むと、小さな元結掛堂が建っている。一間社切妻杮葺きの春日造風の建物で、本尊は悉多太子という。ここに参拝登山受付でもらった角大師の護符が、たくさん貼付けられていた。

投入堂は、三徳山の中腹標高520mの急峻な崖に、へばりつくように懸造で建てられている。崖の上部は安山岩層、下部は凝灰角礫岩層で構成されている。懸造とは、舞台造とも呼ばれ、地形に合わせて高い柱を立て、その上に床を作っている。桁行一間、梁間二間。周囲に高欄付きの縁が巡り、屋根は檜皮葺の流造で、両側面に庇屋根が付き、さらにその隅に隅庇屋根が付いている。流造は神社の建築様式であり、また平安時代末期に作られた木造の狛犬が奉納されていることからも、もとは神社建築として建てられたことが分かる。なお、木材の年輪年代測定により、投入堂の建築年代は平安時代後期の11世紀後半と判明したが、これは神社建築としては最古級の古さであり、国宝に指定されている。左奥には、桁行一間、梁間一間、切妻檜皮葺きの小さな愛染堂が連結している。

投入堂の右手前の崖に、小さな不動堂が建っている。一間社切妻杮葺き、春日造風の建物で、江戸時代後期に建てられたと推定されている。崖地に建てられているため向拝を支える柱が長く、正面の縁には三方に高欄を巡らしている。

本来投入堂は、修験道に縁の深い蔵王権現を祀る蔵王堂であり、内部には蔵王権現が安置されていた。建物に使用されている木材は全て檜で、垂木にはベンガラで塗られた跡が残っている。かつては投入堂の柱は赤く、壁は白く、垂木の先端には金の装飾が施されていたという。投入堂の左に附属する愛染堂も、投入堂の附けたりとしてともに国宝に指定されている。
俗に「日本一危険な国宝」とささやかれる三徳山三佛寺投入堂は、数年前の滑落死亡事故を機に単独登山が禁止されている。入峰修行というように全山よじ上ることが多いので、トレッキングシューズと軍手を用意し、両手が使える状態で入山することが必要である。