半坪ビオトープの日記

殺生石


左の木道を進むと左手に千体地蔵と教伝地獄がある。
昔、白河の蓮華寺に教伝という住職がいた。生まれながらの不良少年だった教伝は、母と一緒に寺に住むようになっても素行が悪かった。元享元年(1321)のこと、教伝は友と那須温泉に湯治に出かける朝、母の用意した朝食の膳を蹴飛ばして出かけた天罰により、殺生石の火の海地獄に引き込まれて息を引き取った。享保年間(1716~35)に湯本温泉の有志が地蔵を建立して供養した後、親不孝の戒めとして参拝する人が増えたという。教伝地獄の地蔵の手前に千体地蔵が所狭しと並べられている。拝む手が異常に大きいのが特徴である。

後ろの小さな古い教伝地蔵は、享保15年と彫られているが、首が取れていたのを修復している。手前の大きな地蔵は、昭和50年代に建立された。

突き当たりの殺生石には、九尾を持った狐の妖怪の伝説が残っている。昔、中国やインドで美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が、今から八百年程前の鳥羽天皇の御代に日本に渡来した。この妖狐は「玉藻の前」と名乗る女官として鳥羽天皇の寵愛を受け、日本の国を滅ぼそうとしたが、時の陰陽師安倍泰成にその正体を見破られて那須ヶ原へと逃げてきた。その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えたので、朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治した。

ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に危害を与えたので、これを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていた。その後、会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐の恨みを封じたところ、石は打ち砕かれてかけらが全国3か所の高田と呼ばれる地に飛散し、ようやく毒気も少なくなったと語り伝えられている。

元禄2年(1689)4月19日(新暦6月6日)に松尾芭蕉は、「奥の細道」の途中で殺生石を訪れている。
「これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。この口付きの男『短冊得させよ』と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、
野を横に馬引き向けよほととぎす
殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。
殺生石の一番右手に見える石碑は、芭蕉の句碑である。「曾良随行日記」に書き留められているが「奥の細道」には載らなかった句である。
石の香や夏草赤く露あつく 芭蕉