半坪ビオトープの日記

豊乗寺、最勝寺


智頭宿は智頭駅の北にあるが、駅の西に向かうと4kmほどの山麓高野山真言宗の古刹、豊乗寺がある。山門の石段の右手前には石地蔵があるが、それは昔、清美という村の娘が悲恋のため豊乗寺の池に身を投げて死んだ霊を弔うために造られたといわれる。

豊乗寺の山号は宇谷山という。山号の書かれた八脚門の山門は、延享元年(1744)に建築されたもので、入母屋、桟瓦葺(当初は茅葺と想定されている)である。前室の奥行き半ばの位置に板扉とそれを支える円柱が配されるなど独特な平面を持ち、組物なども古い形式を伝え、太子堂とともに県の保護文化財に指定されている。

山門には、運慶作と伝わる金剛力士像2体が安置されている。

境内に入り振り返って見ると、山門の内側には、いくつかの小さな石仏が安置されている。こちらの右手の名札には、新四国八十八ヶ所八十五番、讃岐国八栗寺、本尊聖観世音菩薩とあり、左手の名札には、新四国八十八ヶ所八十六番、讃岐国志度寺、本尊十一面観世音とある。

豊乗寺は、寺伝では、弘法大師空海実弟・真雅大僧都(801~79)が嘉祥年間(848~51)に草創したという。資料上では、今はなき梵鐘の銘文に「有徳の高僧開闢の勝地」「開山五代の末葉、範恵阿闍梨、明応5年(1496)に梵鐘を鋳る」とあるところから、寺は15世紀には創設されていたと考えられている。

豊乗寺は大杉で知られるが、茅葺の大師堂の左手前には高野槙の巨木が立っている。目通り3.5mで、「鳥取の名木百選」に選ばれている。

茅葺の大師堂は、天明2年(1782)に建築されたもので、正面入母屋、背面寄棟、茅葺、桁行3間、梁間3間で、造りは簡素であるが、組物等に18世紀建築の特色が伺え、正面には池田家の家紋が挿入されるなど、鳥取藩との関わりも深かったといわれる。

豊乗寺はかつて12の僧坊を含む大伽藍を擁し、大山寺や三徳山三仏寺とともに密教信仰の一大拠点であった。天正8年(1580)、羽柴秀吉による因幡侵攻の兵火により多くの堂宇が焼失した。寛永年間(1624~43)高野山の真慶が中興し、秀尊が堂宇を再建し、地中から多くの寺宝を掘り出したという。現在の本堂は、貞享2年(1685)に方3間、背面中央に仏壇を構えた中世仏堂風の阿弥陀堂として再建された。その後四周1間通りを拡張し、前面を外陣、両側面を脇陣、背面を仏壇、位牌檀の間とした。本尊として阿弥陀如来を安置している。寺宝の「絹本著色普賢菩薩像」は、巨勢金岡の作と伝えられ、藤原時代の三普賢の一つに数えられ、平安朝密教仏画の最高傑作とされ、国宝となって東京国立博物館に寄託されている。同じく寄託されている「絹本著色楊柳観音像」も「木造毘沙門天立像」と合わせて国の重文に指定されている。他に「絹本著色不動明王像」も寺宝となっている。

本堂の裏手には、小さいながらも趣のある庭園が設けられている。

庭園の背後には、県の天然記念物に指定されている大杉が高く聳えている。境内に三本立つ大杉のうち最大のもので、樹高32m、目通り幹囲6.5m、推定樹齢300年以上とされる。

智頭宿から鳥取市内に向かって上方往来(智頭往来)を北上して20kmほど進むと、河原町になだらかな山頂の霊石山が見えてくる。その山麓真言宗の霊石山最勝寺がある。

寺伝では、和銅3年(710)に行基が霊石山に草庵を開いたことに始まるという。天暦年間(947~57)に慈恵大師(元三大師)が迎えられると寺運が隆盛し、僧坊42坊を擁する大寺となり、大きな影響力を持ったとされる。天正9年(1581)、豊臣秀吉因幡侵攻により鳥取城が落城となり、その兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し旧観を失った。その後再建されたが、享保3年(1718)と昭和14年(1937)にも火災が発生し、寺宝だった大般若経(50巻)や源範頼の縁の太刀や鞍、鎧などを焼失し、昭和30年(1955)に旧境内だった霊石山中腹から現在地に移った。本尊は行基作と伝わる薬師如来である。境内背後の高台には源範頼の墓と伝わる五輪塔などの記念物が点在する。

最勝寺の山門は、入母屋、桟瓦葺の楼門で、下層部の開口部が曲線となり伝説の竜宮城の城門に似ていることから竜宮門と呼ばれる形式を採用している。