半坪ビオトープの日記

翌日は八ヶ岳山麓原村に住む友人の案内で、諏訪大社下社秋宮を訪れた。諏訪大社は、全国各地に一万以上あるという諏訪神社の本社であり、国内で最も古い神社の一つとされるが、その起源は定かではない。

延喜式では名神大社とされ、諏訪湖の南側に上社本宮・前宮、北側に下社春宮・秋宮と4つの宮からなる。下社秋宮は下諏訪宿の脇にあり、下諏訪駅も近いので4つの宮の中で最もにぎわうという。鳥居の右手に駐車場がある。

鳥居をくぐって境内に入ると、正面に御神木の一つ「根入り(寝入り)の杉」がある。樹齢約800年の杉で、丑三つ時になると枝を垂らしてイビキを掻いて寝たといい、子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれる。また、杉の挿し木に根が生えたから「根入りの杉」ともいわれる。

その先中央に神楽殿が建つ。三方切妻造白木造平屋建の神楽殿は、天保6年(1835)に立川和四郎二代目富昌により建てられた。神楽殿には大注連縄が下げられているはずなのだが、どういうわけか外されていた。手前に構える狛犬は、身長1.7mあり、青銅製の狛犬では日本一の大きさといわれている。

記紀神話が伝えるところでは、天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、出雲を支配していた大国主命に国譲り、つまり出雲王朝の支配権を譲渡するように迫ったという。これに対して、大国主の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが負けてしまった。そこで建御名方命は諏訪まで逃れて降伏し、その際この地から出ないことを誓って許されたという。諏訪大社の起源は、この神話にあるといわれている。
楽殿の奥には、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並んでいる。現在幣拝殿とも呼ばれるこの建物は、安永10年(1781)春に諏訪出身の立川和四郎初代富棟の棟梁で落成した。

拝殿奥の神明造りの建物は宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と申年毎に左右の御遷座祭を行う。宝殿の奥が御神座とも相殿ともいわれ、御神木「一位の木」を祀る下社の最も重要な場所である。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体として祀り、古代祭祀の形式を今に残している。
祭神は、上社が建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)とされ、下社はこの2柱のほかに八重事代主神を加えるとしているが、八幡信仰や住吉信仰と同じように個々の祭神を意識することは少なく、まとめて「諏訪大明神」あるいは「お諏訪様」と呼ばれているという。