半坪ビオトープの日記

諏訪大社上社前宮


北八ヶ岳の帰りに諏訪大社の上社を廻った。信濃国の一之宮で、我が国最古の神社の一つとされる諏訪大社は、全国に分社1万社余りを数える。諏訪湖の南に上社、北に下社があって対峙する。
上社は諏訪市にある本宮と、茅野市にある前宮に分かれている。

諏訪大社では本来、神が祀られる本殿がなく、かわりに下社秋宮ではイチイの木を、春宮ではスギの木を神木とし、上社は御山を神体として祀る。
諏訪大社の神紋は、三葉の梶の葉をモチーフとしたもので、上社の神紋は梶の葉の足が四本で諏訪梶と呼ばれ、下社の神紋は足が五本あり明神梶と呼ばれる。ここでは「穀(かじ)の木」と表示されている。

銅製大鳥居のすぐ右脇に、末社の若御子社が建っている。諏訪大社の祭神である建御名方命の御子達を祀っている。

鳥居をくぐって石段を上がると神原(ごうはら)と呼ばれる広場があり、左に十間楼が建っている。屋根は入母屋造で、梁間3間桁行10間である。以前の建物は昭和33年に焼失したので、翌34年に再建された。「御頭祭」など諏訪大社古来の神事は、本宮からここ前宮十間廊へ「出向」して行われ、今でも諏訪大社の祭祀場とされる。今は「御頭祭」で複製の鹿頭を供えるが、昔は75頭の血の滴る鹿の頭を供えていたといわれる。

神原広場の右手には、内御玉殿(うちみたまどの)が建っている。諏訪明神の祖霊が宿るといわれる神宝が安置されていた。「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれたように、諸神事にあたってこの内御玉殿の扉を開かせ、弥栄の鈴を持ち真澄の鏡をかけ馬具を携えて現れる大祝は、まさに神格を備えた現人神としての諏訪明神そのものといわれた。以前の社殿は天正13 年(1585)に造営された上社関係では最古の建造物であったが、現在の社殿は昭和7年に改築されたものである。ここに安置されていた神宝は、今は本宮の宝物館に収蔵されている。

十間楼から坂が続き、参道を50mほど上ると拝殿が建っている。左右背後に4本の御柱が立ち、木々に囲まれた妻入の社殿は、昭和7年に伊勢神宮からの材料で造営されたという。

拝殿の背後に続く本殿は、諏訪大社でよく見られる流造ではなく、梁間3間桁行4間の切妻造で、棟には鰹木を並べている。もともと前宮は、「本宮以前からあった宮」と考えられていたそうで、社殿の奥には墳墓があると伝えられている。江戸初期作といわれる絵図を幕末に模写した「上社古図」によると、4本の御柱のほぼ真中には「今ナシ」の「帝屋」があり、その後ろ正面に「御左口神」があり、その前に「前宮」がある。御左口神については、民俗学で様々に解釈されてきた。中沢新一の整理によれば、「諏訪大明神深秘御本事大事」という古文書では、御左口神は丈7寸5分の胎児としている。実際に諏訪信仰圏では、今でもミシャグチが石棒で祀られているところが残っている。諏訪を中心とした東日本での古代信仰の起源のイメージは、生命力の象徴である石棒を神の依り代である巨木に守ってもらうように手前に置いて祀る情景といえよう。

社殿の廻りには、イヌシデなどの巨木も多く見受けられた。

社殿の廻りの4本の御柱は樹齢200年ほどの樅の巨木で、6年に一度、寅と申の年に立て替えられる。これらは平成22年のものである。柱の樹皮は以前は剥がさなかったが、昭和の終わり頃から剥がされるようになったという。これは一之御柱である。

社殿の左手には「水眼(すいが)」と呼ばれる名水が流れ、古くから神水として大切にされていたという。向こうに見えるのは、二之御柱である。