半坪ビオトープの日記

諏訪大社本宮


諏訪大社の創建は、「古事記」・「先代旧事本紀」によると、天照大神の孫・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方神(たけみなかたのかみ)が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。
祭祀が始まった時期は不詳だが、文献上では「日本書紀」の持統天皇5年(691)に「信濃須波」の神を祀る、というのが初見である。平安時代の「延喜式神名帳」では名神大社に列している。
上社本宮(もとみや)の祭神は、建御名方神であり、上社前宮・下社主祭神は、建御名方神の妃である八坂刀売神(やさかとめのかみ)を祀る。

前宮は古くは上社の摂社であった関係で本殿を有するが、本宮は拝殿後背林の通称御山を神体として祀る。北参道から境内に入ると、正面の塀重門の石段の手前右には祈祷殿が建ち、左には一之御柱が立っている。

一之御柱の手前を左に進み、二之御柱近くにある、東参道の入口御門に向う。左手には雷電像が立っている。雷電の出身地は信濃国大石村(現東御市)で当地と直接の関係はないが、氏子出身の彫刻家の作品として奉納されたそうだ。

二之御柱に向うとすぐ右手には、「宝殿の天滴」で知られる天流水舎が建っている。案内板には「俗にお天水と称される。どんな晴天の日でも雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちるといわれ、諏訪七不思議の一つに数えられている。旱天の折りにはこのお水を青竹に頂いて持ち帰り雨乞いの祭りをすると必ず雨が降ると言い伝えられている」とある。また、この水は天竜川の水源とも伝えられている。
天流水舎の左の石段を上り、布橋をくぐると四脚門がある。慶長13年(1608)に徳川家康が国家安泰を祈願し造営寄進したもので、本宮最古の建物とされる。

天流水舎の向かい、左手には神楽殿が建ち、その先左手に土俵、右手に五間廊と勅使殿が建っている。五間廊は、安永2年(1773)造営とされ、廊下様式切妻造りである。古記録には、神祇官、祢宜大夫、権祝、擬祝、副祝の五官着座のことが見えている。

勅使殿は、元禄3年(1690)造営とされ、安政年間に大修理を加えてある、切妻流れ正面大唐破風造りである。中央の記録では神門戸屋・帝屋とも書かれており、建武2年(1335)大祝即位の記録には御門戸屋にて神事があり、神殿に布を敷いてその上に五穀を供え、そこに大祝が着座したことが見えている。また、勅使参向の折には幣帛の授与が行われ、元旦の蛙狩神事や御頭受神事も行われた所である。当時の勅使殿は、今の神楽殿の前あたりにあり、拝殿の性格を持っていたという。

二之御柱の左、境内東北の隅には、弘化3年(1846)に再建された、駒形屋(神馬舎)が建っている。社殿内には、幣帛を背負った二頭の神馬の像が安置されている。一頭は銅製の黒馬であり、もう一頭は木製の白馬である。

ようやく東参道入口にたどり着いた。あらためて入口門を前にすると左手に、摂社の小さな出早社が建っている。上社の地主神、お諏訪様の門番と伝えられているが、祭神は諏訪大神の御子神・出早雄命(いずはやおのみこと)である。古くからイボ神様として敬われ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習がある。

出早社の右手には、絵馬堂(額殿)がある。文政10年(1827)の建立で、当時は色々な神楽が連日行われていたという。斜めの柱は「目処梃子(めどてこ)」といい、御柱祭では紅白の布が巻かれて、竜の角のように御柱の前の方に取り付けられるものである。