半坪ビオトープの日記


輪王寺大猷院から輪王寺へ戻る下新道の右手に東照宮宝物館がある。征夷大将軍宣旨や家康着用の南蛮胴具足など家康の遺愛品が展示されている。
日光山輪王寺は、下野国出身の勝道上人により開創されたと伝承されているが史書にその記録はない。境内の入口には大きな勝道上人像が立っている。昭和30年に日光市政発足記念に造られたもので、台座には推定32トンの巨大な自然石が使われている。
輪王寺の寺伝によれば、勝道上人は天平神護2年(766)神橋対岸に紫雲立寺(後の四本龍寺)を建てた。平安時代には嵯峨天皇から満願寺の寺号が下賜され、輪王寺の寺号が下賜されたのは、大猷院霊廟が建てられた後の明暦元年(1655)後水尾上皇院宣による。後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺し、以後、輪王寺の住持は法親王が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」ともいう。比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。戊辰戦争の後に明治政府により輪王寺の称号を没収されて旧称の満願寺に戻されたあと、明治15年にようやく輪王寺の寺号を許された。

日光山内で最大の規模を誇る三仏堂は、嘉祥元年(848)に来山した慈覚大師により創建されたとされるが、現在の建物は正保2年(1645)家光が建替えたもので、現在10年がかりの大修理中である。数少ない天台密教形式の建物で、間口33.8m、奥行き21.2mあり、東日本で最大の木造建築物といわれる。屋根は銅瓦葺、堂は総朱塗り、柱は漆塗りのケヤキという。
三仏堂の内陣には、日光三社権現本地仏である、阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音が祀られている。金色本彫像の仏像は、台座から光背の先まで約8mある。江戸時代初期の作で、日本屈指の木彫大座像仏という。ほかにも東照三社権現本地仏である、薬師如来阿弥陀如来・釈迦如来という掛仏の2組の三尊仏が祀られている。

三仏堂の裏手にある大護摩堂では、随時、写経会が催されている。平成10年に完成した護摩祈祷所で、内陣には30体の神仏が祀られているが、コンクリートでできている。

三仏堂の斜め裏手にある、青銅製の細長い塔は、相輪橖(そうりんとう)という。高さは13.2mある。寛永20年(1643)家光の発願によって天海大僧正がたてたもの。比叡山延暦寺にある天台宗宗祖最澄が初めて建てた宝塔を模して造られた。東照宮の魔除けであり、内部には1000部にもおよぶ経典が納められている。

護摩堂の右隣には護法天堂が建っている。本尊は毘沙門天、大黒天、弁財天という開運の三天である。三仏堂の本尊である阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音が、庶民がご利益をお願いやすいよう身近な姿に変わった天部の仏様である。日光山の重要な護摩祈願所だったが、今は大護摩堂がその坐を継いでいる。

護摩堂の左隣にある小さな神社は、光明院稲荷社という。鎌倉中期当山24世弁覚僧正が新たに光明院を建立し、日光山の本坊とした。その守護神として稲荷社を勧請、光明院稲荷社と称した。古くから日光山の五大稲荷として学業成就、家業繁栄の祈願に信仰されているという。