半坪ビオトープの日記

埴生護国八幡宮、城端別院善徳寺

埴生護国八幡宮
高岡市の西にある小矢部市倶利伽羅県定公園があるように、源平合戦の舞台となった倶利伽羅合戦古戦場がある。寿永2年(1183)木曽山中で兵を挙げた源義仲は、京都から下った平維盛の軍と倶利伽羅山で対戦した。義仲は「火牛の計」を策して平家十万の大軍を破った。その木曾義仲が戦勝祈願を行い、付近に本陣を張ったのが埴生護国八幡宮である。

埴生護国八幡宮
宮縁起によれば、奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の分霊を勧請したのに始まり、天平時代に越中の国守・大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代後期には、羽生の地は石清水八幡宮の荘園だった。戦国時代には武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄佐々成政、遊佐義親などの祈願や社領の寄進が続いた。江戸時代には加賀藩より社殿が寄進され、加賀藩主・前田侯の祈願社となった。社名の「護国」とは、江戸の初め慶長年間に当地方に凶作が続いたため、前田利長が当社に豊作を祈願したところ、霊験著しく、この尊号を奉ったことによる。

拝殿
現在の社殿は、加賀藩前田家により慶長5年(1600)から正保3年(1646)にわたり造営寄進されたものである。大正13年、社殿全部が国宝に指定され、戦後は国指定重要文化財となる。拝殿は正保3年に建立。入母屋造、桁行5間、梁間3間の建坪33坪。前方正面に千鳥破風が大きく構える。破風頂上の鬼瓦は、胯鬼三つ切二つ雲で、真ん中に前田家の家紋、梅鉢紋が睨みをきかせている。破風の拝みに付く猪目懸魚も大きく、妻の大瓶束が左右二つ設けられているのが珍しい。それだけ千鳥破風が豪壮で重いためだろう。千鳥破風および屋根の軒回りの垂木などの組物も重厚にできている。

拝殿内
埴生護国八幡宮主祭神八幡大神はやはたの大神とも呼ばれ、誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)すなわち応神天皇と一体である。農業神、鍛治神、国家神、軍神として崇められ、八幡大菩薩とも称せられて仏教との関わりも深かった。宝物として、木曾義仲の祈願書などの埴生護国八幡宮文書、八幡神像などがある。

幣殿、釣殿、本殿
拝殿の後ろには幣殿が続き、本殿との間には釣殿が設けられている。本殿は慶長5年に前田利長大聖寺へ出陣の際、祈願あり、帰陣後に寄進された。三間社流造、建坪1074。釣殿は慶長16年(1611)、前田利長高岡城在城の折、病気平癒を祈願して寄進された。幣殿は拝殿と同時に寄進された。入母屋造、桁行3間、梁間3間、建坪8坪99

埴生護国八幡宮の社殿
拝殿、幣殿、釣殿、本殿が連なり、柿葺の屋根の曲線が美しい。柿葺の屋根の維持の為、概ね25年に一度、国・県・市の補助事業により葺き替えが実施されている。

城端別院善徳寺、山門

小矢部市砺波市の南に南砺市があり、井波彫刻の瑞泉寺城端の曳山、棟方志功記念館など見どころが多い。まずは城端別院善徳寺を訪ねる。城端別院は浄土真宗大谷派の寺院で次号を善徳寺、山号を廓龍山と号す。蓮如上人が吉崎にて布教していた頃、本願寺五代綽如上人の孫の蓮真は、蓮如の願いにより県境の砂子坂に文明年間(1470頃)に一寺を建立し、蓮如を開基、自身を2世とした。その後、5世祐勝の時代に現在地に移転した。文化6年(1809)上棟し、文化12年に再建された山門は、入母屋造、本瓦葺き、3間3戸2階二重門。棟梁は地元の大工・山村與四郎だった。

山門、別院大杉
山門は禅宗様で統一され、壮大で重厚な造りである。楼上に釈迦三尊が安置され、天井には狩野派絵師による天女と迦陵頻伽が描かれる。脇に立つ巨木は「別院大杉」と称する。樹高27m、目通り幹囲7.2m、「日本の巨樹・巨木林」にも選定されている。

城端別院善徳寺、本堂
第6世空勝は本願寺織田信長との石山合戦に参戦し、あくまで本願寺を死守しようとする教如上人(東派1代目)に協力し尽力した。このことが後の東西分派で善徳寺が東派になることや、江戸時代に越中東方の最有力寺院としての地位や役割を果たすことにつながった。江戸時代には加賀藩前田家の庇護のもと、越中触頭役(頭寺)を勤め隆盛し、時には加賀藩主の子を住職として迎えることもあった。本堂は宝暦9年(1759)に再建され、その後約250年間、一度も火災に見舞われることなく現存している。造りは入母屋造、桟瓦葺き、平入、桁行8間、正面3間向拝付。

本堂には阿弥陀如来が安置されている。山門楼上の釈迦如来と合わせ、境内自体が二河白道を表している。二河白道とは、阿弥陀如来の救いを説く比喩であり、火の河と水の河を人の貪欲と怒りに例え、その二河に挟まれた一筋の白い道を浄土に至る信心に例えたものである。

蓮如上人の銅像
本堂の左手(南)には蓮如上人の銅像が立っている。本堂の向かい山門の南には、天明元年1781)に上棟された鐘楼堂が建っている。