半坪ビオトープの日記

城端曳山会館、福光美術館

城端曳山会館
城端曳山会館では、加賀藩の保護を受けた大工ら匠の技が光る曳山、傘鉾、庵屋台などの伝統工芸品が常時展示されている。城端曳山祭りとは、毎年5月5日に城端で行われている300年の伝統を誇る祭りで、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

西上町の曳山「竹田山」
享保2年(1717)に神輿がつくられ、獅子舞や傘鉾の行列も始まり、享保4年8月の祭りには曳山ができて、享保9年には神輿の渡御にお供した。文政年間(181830)には城端絹が京から江戸へ移出され、化政文化の影響を受けて庵唄や庵屋台が整備され、優雅な曳山祭になった。明治になり祭礼日が5月となり、曳山や庵屋台の装飾も次第に豪華となった。繊細な彫りと塗りが施された山車・曳山の豪華さは圧巻。神像を載せた6台の曳山と庵屋台、獅子舞・剣鉾・傘鉾・四神旗や神輿などが街中を練り歩く。こうした古い神迎行列をとる形式は県内唯一である。西上町の曳山「竹田山」に乗る神像は、寛政7年(1795)荒木和助作の「恵比寿」である。入母屋造、四方一文字、折上平天井、輻車。

東下町の曳山「東耀山」
こちらの東下町の曳山「東耀山」に乗る神像は、安永3年(1774)荒木和助改作の「大黒天」である。入母屋造、前後唐破風左右一文字、折上格天井、十六菊金具打、輻車。他にも西下町の曳山「諫鼓山」の神像は「堯王」、出丸町の曳山「唐子山」の神像は「布袋」、大工町の曳山「千枚分銅山」の神像は「関羽周倉」、東下町の曳山「鶴舞山」の神像は「寿老」と、計6台が展示されている。

新町の剱鉾
こちらが新町の剱鉾(けんほこ)。起源は不明だが、当初は剱鉾を立てた台座に「太神宮」と記した旗を結びつけ担い棒でかついで巡行した。大正14年に現在の御所車風の車輪を新調し、昭和5年に塗りと彫刻を施し完成した。獅子舞は悪霊を鎮め、剱鉾は悪魔を除き邪鬼を祓うとされる。

庵屋台の欄間
館内には庵屋台も3台ほど展示されている。庵屋台(いおり屋台)とは、名前の通り上部が庵(江戸時代の料亭や平安貴族の邸宅の模型)になっている。下部は水引幕で覆われ、その中に各々の街の若衆が入り、笛・太鼓・三味線を演奏し、庵唄を唄う。庵と水引幕の間の重(じゅう)と呼ばれる部分には欄間がぐるりと飾られていて、緻密な彫刻の様を目の前で見ることができる。

福光美術館
福光美術館は、南砺市福光にゆかりの深い版画家・棟方志功日本画家・石崎光瑤の作品を展示している。年に3・4回展示替えがなされるという。福光出身の花鳥画家・石崎光瑤の遺族から500点を超す写生画の寄贈の申し出があり、それがきっかけで当美術館が建設された。

棟方志功の「美魅寿玖(みみずく)の図」
こちらは棟方志功の「美魅寿玖(みみずく)の図」。昭和19年(1944)の作。日本の代表的版画家である棟方志功は、昭和20年から6年間、戦禍を避けるために当時の福光町に疎開していた。

棟方志功の「華狩頌」
こちらは棟方志功の「華狩頌」。昭和29年(1954)の木版画。華狩とは、弓矢でなく美しい花で心を射止めること。他にも「女人鷹の柵」などの作品が展示されている。

石崎光瑤の「秋光」
こちらは石崎光瑤の「秋光」。文展や帝展で特選を重ねた石崎光瑤は、日本近代登山史に名を残す登山家でもある。青年期に日本山岳会会員となり、明治42年(1909)には民間人パーティとして初めて北アルプス剣岳の登頂に成功した。ヒマラヤ周辺の山々にも大正5年(1916)、昭和8年(1933)と二度、登攀の挑戦をしている。

石崎光瑤の「雪」
こちらは石崎光瑤の「雪」。二曲一双の屏風。大正9年、第2回帝展に無鑑査出品された作品。

石崎光瑤の「寂光」
こちらは石崎光瑤の「寂光」。二曲一双の屏風。昭和4年、45歳の時に第10回帝展に審査員出品した作品。7羽の孔雀と樹木、月が巧みに構成されている。