半坪ビオトープの日記

那須神社


那須官衙跡の北約10kmに黒羽城があり、その西数kmのところに那須神社がある。杉が植えられた長い参道の先に鳥居があり、くぐると広々とした境内に出る。振り返ってみると、参道の入口が見えない程だ。

那須神社の本殿と楼門は、今年3月に国の重要文化財に指定され、さらにおくのほそ道風景地名勝にも指定された。かつては金丸八幡宮と称したという。

社伝によれば、創建は仁徳天皇時代(313~399)下毛野国造奈良別王が、国家鎮護のため金瓊(きんけい=黄金の玉)を当地に埋め、その塚の上に宮を建てたことによるという。当初の祭神は、天照大神日本武尊春日大神であったが、延暦年中(782~806)に坂上田村麻呂応神天皇を祀って金丸八幡宮と称し、戦勝を祈願したと伝えられている。現在の楼門は、3間1戸の銅板葺きで、寛永19年(1642)の建立と判明している。上層に屋根をかけ、下層に高欄付の縁を廻らした楼門形式で、典型的な禅宗様建築である。東西には塀が連続して、入母屋造の長床がある。

源義家も当地に戦勝を祈願し社殿を造営した。那須与一屋島の合戦(1185)後、その戦功により那須の総領になるや、文治3年(1187)社殿を再建し、社領を寄進し、太刀・弓などを奉納した。それ以後、那須神社は那須氏累代の氏神として崇敬され、文和4年に社殿を再建し、銅製鰐口を奉納した。

那須氏没落の後は黒羽城主大関氏の氏神として崇められ、天正5年(1577)には本殿・拝殿・楼門が再建されたと伝わる。

那須与一屋島の戦いで扇の的を弓矢で射落とす際、「南無八幡大菩薩・・・」と心に念じた神社として知られる。

雨に降られてわかり難いが、本殿は3間社流造瓦棒銅板葺きで、寛永18年(1641)に新築されていることが判明している。桃山風の本殿全体の彫刻や彩色、楼門全体を彩る装飾などは独創的で、中世と近世の特徴を併せ持つ神社建築として高く評価されている。この社殿を建てた大関氏は日光東照宮の建築に関わった人物で、その技術を駆使したといわれている。

元禄2年(1689)には、おくのほそ道の途次、松尾芭蕉の来訪もあった。また、春秋の例大祭に奉納される太々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事も有名である。本殿の右奥には末社が祀られている。

本殿の裏には、金丸塚がある。仁徳天皇時代(313~399)下毛野国造奈良別王が、国家鎮護のため金瓊を当地に埋め、その塚の上に宮を建てたという創建説話に出てくる塚で、金丸という地名もここから生じたとされる。

本殿の左奥にも末社が祀られている。その右の巨木は、ヒノキで大田原市の名木に指定されている。参道にも名木に指定されているサワラの巨木がある。