半坪ビオトープの日記

吾妻神社


帰りは榛名神社を見るだけだが、ついでにいくつか寺社を廻った。中之条の町外れに吾妻(あがつま)神社がある。

うっそうと杉の木が林立する境内に入ると、参道の左手に大きな石碑が建っている。篁庵(高橋景作)追遠碑である。江戸時代後期の蘭学者高野長英の高弟となり私塾大観堂の塾頭も務めた高橋景作は、故郷の中之条に戻って医者として診療にあたる傍ら、私塾誠求堂を開き子弟を育てた。高野長英は、天保10年(1836)「夢物語」の筆禍で投獄され、5年後に火災に乗じて脱獄した。高橋景作は、生家に近い文殊院に長英を匿ったという伝説がある。長英は、嘉永3年(1850)捕吏に囲まれ自殺した。この碑は景作の門弟により建立され、町の重文に指定されている。

参道の正面には赤い屋根の神門が建っている。神門は入母屋造、鉄板葺き3間1戸の八脚門で、天井には天女などの絵がいくつも描かれている。

神門を潜ってすぐ右手にあるこの建物は、額殿である。入口天井にもいろいろと絵が描かれている。

左手にも鳥居があり、すぐそばには参集殿が建っている。

吾妻神社の創建は不詳だが、伝承では上古の時代とされ、当初は和流宮と称し、本殿は御洗水山の山頂付近に鎮座していたという。歴代藩主に信仰され、当地を支配していた塩谷氏が弘治2年(1556)里宮として拝殿のあった現在地に移された。文化9年(1812)の火災で多くの社殿、記録が失われ、文政4年(1821)に再建された。
拝殿は、入母屋造銅板葺きで、正面屋根には千鳥破風が設えてある。

和流宮とは、唐流に対する大和流の義であり、主祭神大穴牟遅命大国主命)である。その後、割宮、和利宮と改称され、明治維新後、村社6社を含め合計151社を合祀して吾妻神社と改称された。拝殿入口上の虹梁には、彩色された龍や鶴などの浮彫り彫刻が施されている。

拝殿には、奉納された多くの絵馬(天保8年1837)や句額(文政6年1823)、算額明治11年)があり、当時の俳人民間信仰の様子が分かるものとして、中之条町の重文に指定されている。

本殿は、再建当時の建物で、3間社流造、銅板葺き、細部には精巧な彫刻や組物が見られる。

元の和利宮は、和利嶽(わりのたけ)と呼ばれた嵩山(たけやま、789m)と関連がある。嵩山の南麓にある親都神社は、七社大明神と呼ばれ、嵩山そのものを御神体として、和利大明神として祀っていた。そして和利宮も和利大明神を祀っていたといわれる。

本殿は、組物と彫刻で豪壮華麗に組み立てられている。左手に見える海老虹梁は、龍の体そのものが虹梁と化している、龍体丸彫り虹梁である。

社殿の右側には、神楽殿が建っている。神楽殿は、入母屋造、鉄板葺き、妻入、桁行2間、梁間3間半である。