神護寺は、いずれも和気氏の私寺だったと思われる神願寺と高雄山寺が、天長元年(824)に合併してできた寺である。神願寺は和気清麻呂(733-799)により天応元年(781)に建てられたとされるが所在地は諸説あり決め手を欠いている。高雄山寺は現在地に古くからあったが創立は不明であり、神願寺と同時期と推定されている。史上の初見は延暦21年(802)、和気清麻呂の長男・弘世が最澄を招請し、最澄はここで法華会を行った。弘仁3年(812)には空海が高雄山寺に住し、灌頂を行った。長い石段を上った先に神護寺の楼門が西を正面として建つ。この楼門は元和9年(1623)の再建で、両脇に持国天と増長天の二天像を安置するというが、残念ながら見当たらなかった。
金堂は広い石段の上に建つが、上から振り返ると鮮やかな紅葉の先に五大堂と毘沙門堂が並んで建っているのがわかる。
神護寺の歴史は紆余曲折を経ている。神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994)と久安5年(1149)に火災で焼失するなどしたため、平安時代末期には衰退していた。そこに『平家物語』で知られる武士出身の僧・文覚が現れた。仁安3年(1168)に神護寺に参詣した文覚は、その荒廃を嘆いて再興の勧進を始め、寿永3年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって、薬師堂、納涼殿、不動堂などを再建し、往年以上の復興をみた。その後、応仁の乱や天文年間(1532-55)に兵火にかかって焼失したが、元和元年(1615)に讃岐国の屋島寺から龍厳が入寺すると、龍厳に帰依する京都所司代・板倉勝重が奉行となって元和9年に再興された。しかし、明治初期に行われた廃仏毀釈によって9つの支院と15の坊が破壊され、別院2ヶ寺と末寺の全てが他寺に移され衰微した。昭和9年(1934)に実業家の山口玄洞により金堂、多宝塔、龍王堂、和気公霊廟、茶室が寄進された。この金堂は、入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であり、須弥壇中央の厨子に本尊・木造薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光菩薩立像(重文)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。