半坪ビオトープの日記

高雄山・神護寺

高雄山・神護寺、高雄橋
三尾巡りの最後は、高雄山神護寺である。愛宕山924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から眺める渓谷の紅葉も美しいが、長い参道を歩いた先の山中には、金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建ち、様々な紅葉を味わうことができる。

神護寺の楼門

神護寺は、いずれも和気氏の私寺だったと思われる神願寺と高雄山寺が、天長元年(824)に合併してできた寺である。神願寺は和気清麻呂(733-799)により天応元年(781)に建てられたとされるが所在地は諸説あり決め手を欠いている。高雄山寺は現在地に古くからあったが創立は不明であり、神願寺と同時期と推定されている。史上の初見は延暦21年(802)、和気清麻呂の長男・弘世が最澄招請し、最澄はここで法華会を行った。弘仁3年(812)には空海が高雄山寺に住し、灌頂を行った。長い石段を上った先に神護寺の楼門が西を正面として建つ。この楼門は元和9年(1623)の再建で、両脇に持国天増長天の二天像を安置するというが、残念ながら見当たらなかった。

書院
楼門を入ると平らな境内が広がり、右手に書院、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建つ。書院では宝物虫払い行事の期間中(5月1日〜5日)、国宝・源頼朝像、平重盛像、釈迦如来像などが展示される。普段は非公開の書院だが、この時には「灌頂の庭」も拝見できる。

和気公霊廟
神護寺の前身となる神願寺と高雄山寺を建立した和気清麻呂が祀られているのが、この和気公霊廟である。和気清麻呂は、道鏡皇位に就こうとした時にそれを阻止したことで知られ、桓武天皇の時代には長岡京から平安京への遷都を上奏したという。

和気公霊廟
かつてこの場所には清麻呂の霊社が祀られ、護法前神社と称されていたが、明治19年(1886)、京都御所の蛤御門前に遷座されている(護法神社)。昭和9年(1934)に山口玄洞の寄進により再建された。

鐘楼
書院の左手、長い石段の上に建つ楼造の鐘楼は、元和9年(1623)の再建。楼上の梵鐘は、貞観17年(875)に鋳造されたもので、国宝になっている。序詞を橘広相、銘文を菅原是善菅原道真の父)、揮毫は藤原敏行の手による銘文が刻まれている。序、銘、書のいずれも当代一流のものによることから「三絶の鐘」と称された。日本三名鐘の一つ。

五大堂
鐘楼を右手に見て正面には五大堂を望むと、鮮やかな紅葉の影に明王堂が隠れ、その先に金堂が配されている。晴天に映える紅葉を撮る人が多い。

明王
明王堂の扁額は七代目・市川團十郎の揮毫である。現在の明王堂に安置されている不動明王像は、平安時代中期頃の作と考えられているが、平将門の乱を鎮めるために下総国へ下った不動明王像との関係は不明である。天慶2年(939)に平将門の乱が勃発した時に、朱雀天皇は、嵯峨天皇の勅命により弘法大師空海が刻して神護寺護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、遍照寺の寛朝大僧正に命じて下総国公津ヶ原(現、成田市並木町)の堂宇にて朝敵調伏の護摩を修せしめた。翌年、乱の平定後に朱雀天皇は、寛朝が帰京しようとしたが不動明王像が動こうとしないとの報せを聞き、公津ヶ原に東国鎮護の霊場を拓くべきと考え、神護新勝寺の寺名を下賜し勅願寺とした。

金堂から振り返る

金堂は広い石段の上に建つが、上から振り返ると鮮やかな紅葉の先に五大堂と毘沙門堂が並んで建っているのがわかる。

神護寺の金堂

神護寺の歴史は紆余曲折を経ている。神護寺空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994)と久安5年(1149)に火災で焼失するなどしたため、平安時代末期には衰退していた。そこに『平家物語』で知られる武士出身の僧・文覚が現れた。仁安3年(1168)に神護寺に参詣した文覚は、その荒廃を嘆いて再興の勧進を始め、寿永3年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって、薬師堂、納涼殿、不動堂などを再建し、往年以上の復興をみた。その後、応仁の乱や天文年間(1532-55)に兵火にかかって焼失したが、元和元年(1615)に讃岐国屋島寺から龍厳が入寺すると、龍厳に帰依する京都所司代板倉勝重が奉行となって元和9年に再興された。しかし、明治初期に行われた廃仏毀釈によって9つの支院と15の坊が破壊され、別院2ヶ寺と末寺の全てが他寺に移され衰微した。昭和9年(1934)に実業家の山口玄洞により金堂、多宝塔、龍王堂、和気公霊廟、茶室が寄進された。この金堂は、入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂であり、須弥壇中央の厨子に本尊・木造薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光菩薩立像(重文)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。

大師堂
毘沙門堂の西に建つ大師堂は、入母屋造、杮葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を桃山時代に再建したもので、建造物では神護寺唯一の重要文化財である。内部の厨子に正安4年(1302)作の板彫・弘法大師像(重要文化財)を安置する(この大師像は秘仏で、11月1-15日のみ開帳)。

五大堂

金堂へと上る石段の下に建つ五大堂は、入母屋造の三間堂。元和9年の建立である。

毘沙門堂
五大堂の南に建つ毘沙門堂は、入母屋造の五間堂。元和9年の建立。金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていた。内部の厨子平安時代毘沙門天立像(重要文化財)を安置する。