半坪ビオトープの日記

栂尾山・高山寺

栂尾山・高山寺
翌日は、京都の西郊に位置する三尾と呼ばれる高雄・槇尾・栂尾を巡った。駐車場の関係で、最初は一番奥の栂尾山高山寺裏参道から訪れた。古来より紅葉の名所として知られるが、山陰にあたるためか、まだ緑のもみじが多かった。創建は、寺伝によると奈良時代末の宝亀5年(774)に光仁天皇の勅願によって開かれ「神願寺都賀尾坊」と称したと伝わる。

高山寺、石水院
高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされる鎌倉時代華厳宗の僧・明慧坊高弁は、承安3年(1173)に紀伊国有田郡で生まれ、幼時に両親を亡くしたため9歳で母方の叔父にあたる神護寺の僧・上覚の元で仏門に入った。「高山寺」の寺号は、建永元年(1206)に明慧上人が後鳥羽上皇よりこの地を与えられ「日出先照高山之寺」の勅額を賜った時からである。

石水院
寛喜2年(1230)に作成された高山寺境内の絵図(重文、神護寺蔵)が現存しており、当時、大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社があったことが知られる。内、経蔵と呼ばれた建物が「石水院」として現存するほかはことごとく失われている。国宝に指定されている石水院は、五所堂とも呼ばれる鎌倉時代の建築。入母屋造、柿葺。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明慧の住房跡とも伝える。

石水院

石水院の外観は住宅風だが、本来は経蔵として造られたもので、元は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)に洪水で石水院がなくなったため、新たな石水院として整備され、明治22年(1889)に現在地に移築された。草創以来、皇族・公卿・武士の要人らの庇護の元、学問寺として興隆した。寺宝は典籍を中核に国宝・重要文化財を含む一万二千点余が伝わる。平成6年(1994)「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。

善財童子
西正面はかつて春日明神・住吉明神の拝殿であったところで、今は善財童子像が置かれている。欄間にある扁額「石水院」は、富岡鉄斎の筆。

明慧上人像
南面内部の欄間にある勅額「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」は、伝後鳥羽上皇の筆。床間に掛けられているのは、紙本著色明慧上人像。鎌倉時代の作。「樹上座禅像」とも称され、通例の祖師像と異なり、明慧の姿は山中の自然の中に小さく表現されている。明慧は法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(悟り)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明慧の思想とは相反するものであった。ただし、明慧はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。

石水院
明慧上人は、臨済宗開祖の栄西禅師から、宋より持ち帰った茶の種を贈られ、栂尾の地で栽培を始めた。その茶が宇治へと伝わり、その後日本各地へと広まった。それゆえ高山寺は「茶の発祥の地」とされている。

開山堂
明慧上人は禅堂院で晩年を過ごし、そこで入寂した。その後、弟子たちによって師の等身大の木造の坐像が安置されて御影堂信仰が成立した。その建物は室町時代末に焼失したが、江戸時代にこの開山堂が禅堂院の跡地に再建された。

明慧上人御廟
開山堂のすぐ先に石垣で囲まれた明慧上人御廟がある。御廟の左手には宝篋印塔と如法経塔がある。いずれも鎌倉時代のもので、重要文化財に指定されている。

旧石水院跡
御廟の手前から金堂に通じる道の右手に旧石水院跡がある。

金堂
中世の高山寺絵図を見ると、金堂の左方に塔と鐘楼と鎮守社が、右方には阿弥陀堂と羅漢堂と経蔵が並んでいた状況が描かれている。今もそれらの跡や石水院の跡が残る。

金堂
その金堂は室町時代に焼失し、今の金堂は寛永11年(1634)に仁和寺真光院から古御堂を移築したと伝わる。釈迦如来像を本尊とする。高山寺には数多くの宝物が伝わるが、最も有名なのは鳥獣人物戯画絵巻である。甲乙丙丁の四巻からなる紙本墨画の絵巻物である。平安時代末から鎌倉時代初期にかけて複数の作者により段階的に描かれたとされるが、謎の多い絵巻物である。甲・丙巻が東京国立博物館に、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託されている。