半坪ビオトープの日記

出雲大神宮

出雲大神宮
この日は亀岡市湯の花温泉に泊まるので、午後は亀岡市内の見所を回った。亀岡駅の北、約5kmにある千年山の麓に、出雲大神宮が鎮座している。千年山の中心の御影山を神体山とする式内社名神大社)で、丹波国一ノ宮である。

出雲大神宮
社格国幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社である。旧称は出雲神社、別称として元出雲とか千年宮ともいわれる。

夫婦岩
出雲大神宮は「日本一の縁結び」と謳っているが、島根県出雲大社大国主命主祭神とするに対し、大神宮では大国主命と妻・三穂津姫命の二人を主祭神としている。大国主命には複数の妻と多くの子供がいるが、三穂津姫命は大国主命が国譲りの際、最後に迎え入れた妻であった。そのためか、一の鳥居を入ってすぐ右手の目立つところに夫婦岩が祀られている。

出雲大神宮、拝殿

出雲大神宮の創建年代は不詳。社伝では、『丹波国風土記逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記事があるという。『記紀』には国譲りの神事が記されるが、丹波国は出雲・大和の両勢力の接点にあり、国譲りの所由により祀られたとする。国史の初見は『日本紀略』の弘仁8年(818)「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」との記事である。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。大国主命三穂津姫命の二人を主祭神として、天津彦根命と天夷鳥(あめのひなとりの)命を配祀する。一説には三穂津姫命を主祭神とするなど諸説あるようだ。三穂津姫命は、天祖高皇産霊尊の娘で、大国主命の国譲りの際、高皇産霊尊の命により后神となったため、元出雲の別称もこれに由来する。

正面の拝殿は入母屋造妻入、檜皮葺で舞殿形式。明治11年(1878)造営。4月の花鎮祭や10月の例祭では、巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納される。

本殿前の中門
拝殿の後ろには本殿があるのだが、切妻造平入の中門と瑞垣により厳かに囲まれている。

本殿
現在の本殿は、足利尊氏により貞和元年(1345)の改修と伝える。本殿は、三間社流造平入で、前室を有し、屋根は檜皮葺である。国の重要文化財に指定されている。

舟岩
拝殿の右手には舟岩があるが、詳しいことはわからない。

鎮守の森より本殿

本殿の裏手の鎮守の森には、大きな磐座や古い古墳、春日社や稲荷社などの社殿がたくさんあり、拝殿右手の道を上っていくと、鮮やかな紅葉の間から本殿も垣間見ることができる。

本殿
本殿の正面には一間の向拝を付け、前庇を外陣、身舎を内陣・内々陣にあて、奥に行くに従い格式を高めている。外陣・内陣には高欄付きの縁を回している。装飾は蟇股・手挟み程度にとどめているが、太い木割りを使用した豪壮な社殿である。

春日社
鎮守の森をまっすぐに進むと春日社に突き当たる。祭神は建御雷之男神と天兒屋命。出雲の国譲りの際、天津神の使者として遣わされたのが建御雷之男神である。古来より春日社の祭祀を司ってきたのは藤原氏で、その祖と仰がれた天兒屋命も祀っている。中世、藤原氏の一族、一条(後の西園寺)家が当宮の領家職だったことに由来する。

車塚古墳
春日社のすぐ左側を上に進むと古墳に突き当たる。5〜6世紀の横穴式の前方後円墳である車塚古墳には、当宮由縁の口碑がある。

磐座

出雲大神宮の背後には御蔭山が聳え、古来より御神体山として尊崇を集めてきた。国祖とされる国常立尊を祀り、御蔭山の山麓には数箇所の磐座があるとされ、かつては山岳信仰と磐座祭祀の場として信仰が盛んだったと推測される。春日社から左手に進むとすぐに、大きな磐座が鎮座している。堂々としているので古来より崇拝されてきたのだろうが、古墳とどちらが古いのかはわからない。

真名井の泉
夫婦岩の右手には、真名井の泉がある。古来より絶えることなく流れ続け、御神水と崇められてきた。「千年山これやむかしのさされ石 いはほにふかき苔のいろかな」と宗尊親王が詠んだ和歌が伝わる。