半坪ビオトープの日記


仙台駅から東に行くと歌枕で有名な宮城野となり、さらに東に陸奥国分寺薬師堂がある。この敷地一帯にかつては陸奥国分寺があった。
陸奥国分寺天平13年(741)聖武天皇によって全国に建立を命じられた国分寺のうち最北のものである。南大門跡に仁王門が、講堂跡に薬師堂が建つ。南北朝時代にはすっかり衰退し、戦国時代には真言宗となった。

薬師堂は慶長12年に伊達政宗泉州比根(大阪/泉佐野市)の大工駿河守宗次らに修造させた桃山様式建築で、5間四方、素木造の単層入母屋造本瓦葺である。
内陣には家形厨子が置かれ近年まで木像十二神将立像が安置されていた。今また修理中である。

陸奥国分寺跡では昭和30〜59年に、全国初の伽藍調査が行われ、800尺(242m)四方を築地塀で囲み、南北一直線上に南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が並び、金堂の東に回廊を持つ七重塔、鐘楼・経楼が金堂・講堂の東西に配置される大伽藍であることが判明した。これがこの後見学した、仙台博物館にあった陸奥国分寺跡遺構配置図である。

薬師堂の西側の木ノ下公園には、准胝観音堂がある。旧准胝観音堂は、陸奥国分寺の十八伽藍の一つであったが、文治5年(1189)に焼失した。享保4年(1719)仙台藩5代藩主伊達宗村の夫人長松院久我氏冬姫が本尊の准胝観音像を寄進して堂を再建した。江戸時代に設定された仙台三十三観音の第25番札所でもある。

准胝観音堂のすぐ右手に、芭蕉が仙台宮城野で詠んだ「あやめ草足に結ん草鞋の緒」の句碑が建ち、その左に大淀三千風の供養碑が建っている。
芭蕉の句碑は、駿河俳人山南官鼠が天明2年(1782)に仙台を訪れた時に建てたもので、裏面に官鼠の句「暮れかねて鴉(からす)啼くなり冬木立」が彫られている。

古代寺院の跡地には礎石の一部があちこちに散在し、准胝観音堂の廻りには様々な墓碑やらの石碑がたくさん立ち並んでいる。