半坪ビオトープの日記

裏見の滝、赤堀花菖蒲園


湯檜曾から東へ宝川温泉に向かい、藤原湖からさらに東に林道を進むと、武尊山(2158m)の登山口がある武尊神社の手前に裏見の滝駐車場がある。そこから谷を10分ほど下ると、裏見の滝観瀑台がある。落差50mの大瀑布で、別名、宝来の滝とも呼ばれる。落石の恐れがあるので現在は裏側から滝を見ることはできない。

武尊山山麓には30を超える武尊神社があるが、その中で代表的なのがここ藤原の宝台樹にある武尊神社である。由緒によれば、貞観(865年)の頃より「保宝鷹(ほほうたか)神社」と称され、あるいは「保高神社」と呼ばれ、古くから「ホタカ」の神が祀られてきたという。この裏見の滝には、日本武尊が東征の際に立ち寄って、水垢離を行なったという伝説があるように、武尊山の名は日本武尊命に由来するといわれる。しかし、日本武尊伝説が武尊山の山岳修験に影響を及ぼす中で、江戸から明治にかけて、それまでの「ホタカ」に「武尊」の字を宛て、山名および神社名にしたのが真相だとされる。

大露天風呂で有名な宝川温泉日帰り温泉を楽しんだ後、関越トンネルを抜けて越後湯沢の湯沢高原アルプの里を訪ねた。高山植物が200種以上あるというが、ロックガーデンには外国産の植物が多く混じり、寄せ集めの感じがした。日本のレンゲツツジやキレンゲツツジは満開で見応えがする。

こちらは今では珍しいクマガイソウ(Cypripedium japonicum)。日本全国の低山に自生する多年草で、日本の野生ランの中で最大の花であるが、レッドリストの絶滅危惧II類の指定を受けていて、野生の花は滅多に見られなくなった。

開湯が古く、江戸時代には目の温泉として知られた貝掛温泉に泊まった翌朝、三国街道の宿場であった二居宿に寄った。この富沢家は慶長14年(1609)以来、二居宿の庄屋・問屋・本陣役を勤めた。現在の建物は、慶応4年(1868)の戊辰戦争の戦火で焼失後、翌年に以前のままの形式で再建されたものである。

三国峠の谷間に一軒宿の法師温泉がある。弘法大師巡錫の折の発見と伝えられ、宿の開業は明治8年だが、現存最古の建物は明治28年(1895)建築の鹿鳴館様式の本館である。混浴で知られる法師の湯の浴槽の底には玉石が敷きつめられ、その隙間から温泉が自然湧出している。本館と別館は、国の登録有形文化財になっている。

本館から渡り廊下の下を潜って右に折れると、大般若坂への登り口がある。約1km先の大般若坂では、慶応4年(1868)に戊辰戦争会津藩と官軍の激戦で多くの兵士が戦死した。そこには供養塔が建っているという。時間があれば、三国峠・上信越自然歩道で歩くことができる。

帰りがけに伊勢崎市の赤堀花菖蒲園に立ち寄った。この花菖蒲園は、国の指定史跡「女堀」の中に25,000株の花菖蒲が咲き乱れる、伊勢崎市の花の名所である。「女堀」とは、前橋市上泉町から伊勢崎市国定町までの東西12km、幅20mにわたって築かれた溝である。平安時代後期に作られた未完成の用水路跡と推定されている。

初夏には白や紫などの花菖蒲が約500mにわたり一斉に咲き揃い、幻想的な世界を作り出す。例年6月中旬に赤堀花菖蒲園祭りが開かれるが、今年は開花が早まり、6月上旬に満開になっていた。

一般に花菖蒲は江戸系、肥後系、伊勢系などの系統に別れるが、この花菖蒲園では系統別に分けてもいないし、そもそも名札が付けられていない。図鑑を見ながらあてずっぽうで言うと、左は江戸系の「玉鉾」、右は肥後系の「花武者」であろうか。

これは図鑑で見ても当てはまるものがない。花菖蒲の品種は5,000種を超えるといわれるが、この図鑑は100種ほどしか取り上げていないので、当てはまらないのは致し方ない。

これも基本的な色形と思うが、残念ながら同定は難しい。