半坪ビオトープの日記

湯原武尊神社


群馬県利根郡川場村には、武尊神社が大字生品、天神、立岩、湯原と四つもある。その中で最も大きいものが、川場村中心街の北、川場温泉にある湯原の武尊神社である。正面入母屋の妻飾りには大きな邪鬼が睨みを利かせている。

拝殿は、桁行3間、梁間3間の入母屋造で、正面に千鳥破風を付け、1間の向拝には唐破風の軒を付ける豪壮な造りである。大床勾欄を四面に回すお堂造りもあいまって、全体に棟高な印象を与える風変わりな構造の建築様式である。重量感のある屋根は、元は茅葺だったが銅板葺きに改められている。

古くから武尊山を祭神とする山岳信仰の流れを汲んでいたためか、神仏混合形式で、別の本殿を持たず拝殿のみとなっている。向拝・虹梁の彫刻も様々な構図で精巧に意匠豊かに施されていて驚嘆するばかりである。向拝の兎の毛通しには青い鳳凰が舞い、その奥の大瓶束には、よく妻飾りにあるような朱色の邪鬼の彫物が施されている。

木鼻から海老虹梁にわたって大きく絡み付いている龍の彫刻も、大胆で見たことがない珍しい構図である。

享保3年(1718)に湯前薬師堂として創建され、宝暦5年(1755)に片品村花咲にあった武尊神社の分霊を勧請して修復され、享和4年(1804)に現在の拝殿が完成した。大工は群馬県荒井村の松岡出雲正ほか2名。彫刻師は花輪村の星野甚右衛門。石屋は茂吉、屋根屋は伝七、長押金具は鍛冶佐吉とされる。
明治17年(1884)頃合併合祀したため、現在の祭神は穂高見神建御名方命大山祇命、埴安媛命、事代主命、素戔鳴命、誉田別命を祀っている。内陣中央には2体の薬師像が安置された厨子があり、左右の須弥壇には社がある。内陣欄間の彫刻も中国の故事に因んだものと思われる。

外陣の天井には、狩野探雲が描いたといわれる見事な双竜図がある。上野探雲とも呼ばれた狩野探雲は、群馬県甘楽郡野上村出身の狩野派の絵師で、狩野探信の弟子として修学、江戸城西の丸の障壁画等の製作に従事し、晩年は上野七日市藩の御用絵師となり、文化9年(1812)に88歳で亡くなっている。この天井画には「行年八十歳法眼探雲筆」の落款があるので、文化元年(1804)に描かれたと思われる。法眼とは絵師として最高位である。

龍の天井画の回りの格天井にも彩色された花の絵が描かれ、欄間や蟇股・中備などの彫刻も精巧に施され、ところどころ彩色も見られる。

外回りの右側面の欄間にも、中国の君主の四芸といわれた「琴棋書画の遊」の中の、碁を打つ人々や、琴を弾く人が彫られている。木鼻の獅子や尾垂木の瑞獣の彫刻も面白い。

外回りの左側面にも、「琴棋書画の遊」の中の書画の場面の彫刻が施されている。

川場村から東北に片品村へ向かう途中、木々の合間から左側(北側)に雪の残る高い山が見えた。この山がこの地域の主峰、武尊山(2,158m)と思われる。