半坪ビオトープの日記

戸隠神社、宝光社


戸隠神社は、平安時代には修験道の道場として都にまで知られた霊場だった。神仏混淆の時代には戸隠山顕光寺と称し、平安時代末期には「戸隠三千坊」といわれ、比叡山高野山とともに「三千坊三山」といわれる繁栄を見せていた。

戸隠五社の初めに位置する宝光社は、中社に劣らず大きな境内を誇る。幅広い石段の上に大きな鳥居と自然石の社号標がある。杉の巨木が鬱蒼と聳え立って一段高い境内から狛犬の構える石段をさらに上っていく。

長い参道の石段の途中から右に別れる石段があり、素朴な木の鳥居の先に石の祠がいくつも祀られている。

さらに左へ上る石段があり、木の鳥居の先には境内社天満宮が祀られている。

またもう一つ参道の脇に別の境内社があった。

総計270余段の石段を上りきると、神仏習合時代の面影を残す荘厳な社殿がある。康平元年(1058)奥社より分祀された。文久元年(1861)に建てられたという現在の社殿は、間口五間、奥行七間で、正面に軒唐破風付の一間の向拝を付け、屋根は入母屋造妻入銅板葺きである。

全体が素木造で、向拝、欄間、小壁などに多くの彫刻をつけた幕末期らしい様式をもっている。
とりわけ太い虹梁の左端には亀の親子が、虹梁上には龍が、その上には三羽の鶴が、さらにその上には二頭の麒麟が彫刻され、虹梁下の手挟みなども手の込んだ意匠で素晴らしい出来映えである。

向拝下を横から眺めると、二重虹梁と大瓶束、さらに海老虹梁と堂々たる構造で組み立てられていることが分かる。

内部は表側の拝殿とその奥の内拝殿に分けられ、内拝殿の床が一段高く、境に両折の網戸をつけている。内拝殿の奥には三個の扉口をもった本殿が設けられ、その前面に高欄のついた縁と戒壇がある。
祭神の天表春命(あめのうわはるのみこと)は、中社祭神の天八意思兼命の子であり、天孫降臨の際、護衛として降臨した神である。信濃阿智祝、武蔵秩父国造の祖である。
神仏習合の時代には、宝光社を宝光院あるいは福岡院と呼び、本地は将軍地蔵であった。
現在でも宝光社には、16の宿坊(社家)がある。

境内には神輿社があり、きらびやかな神輿が安置されている。この神輿の唐破風には亀の彫刻が施されている。

こちらの武田菱が随所に施された神輿は、文化元年(1804)に製作されたもので、当時は江戸まで担いでいき、出開張を行ってたくさんの信者を集めていたという。