半坪ビオトープの日記

戸隠神社、中社


善光寺から北に向い、戸隠神社に着く頃には雨が降ってきた。戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来千数百年に及ぶ歴史を刻む神社である。
遠い神代の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったという伝説のある戸隠山を中心に発達し、祭神は「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀っている。
まずは、名物戸隠そばの店や宿坊などが建ち並ぶ中社から見ていく。大きな鳥居の奥の石段上の境内に大杉があり、鳥居の左右にも大杉があって、三本はほぼ正三角形に位置している。この三本杉に八百比丘尼の伝説がある。若狭国小浜の漁師が人魚を殺し、誤ってその肉を三人の子に食わせたところ三人とも人魚になってしまった。漁師はその罪を悔い、戸隠山に籠もりここの杉の木三本を植えたという。

大鳥居の右手には招魂碑があり、その右に境内社である諏訪神社への石段がある。

大鳥居の左手、道路の左側に聳え立つ大杉は、目通り16m、高さ約38mとされるが、目通りは間違いと思われる。ちなみにこの向いにある、鳥居の右の大杉は、目通り9.4m、高さ約42mとされる。

大鳥居をくぐって石段を上ったところに立つ大杉は、目通り7.3m、高さ約37mで、これ自体が三本の杉が合体して立っている。三本杉はどれも御神木として信仰されている。

三本合体杉の右手には、境内社日吉社があり、祭神として瀧津姫命を祀る。宝永4年(1707)に比叡山日吉大社から勧請したそうだ。

三本合体杉が立つ境内からさらに石段を上った上に、中社の社殿が微かに見える。

戸隠五社のうち、奥社、中社、宝光社を戸隠三社と呼ぶ。まず奥社が創建され、続いて宝光社が創建されたが、宝治元年(1087)に時の別当が「当山は三院たるべし」という夢告を受け、両社の中間に中社が奥社の相殿として創建された。また天福元年(1233)飯縄大明神が住職に託して「吾は日本第三の天狗である。当山の鎮守となろう」と告げたという。

入母屋造の社殿は、たびたびの火災で類焼し、現在の社殿は昭和31年のものである。
神仏習合の時代には、中社を中院、あるいは富岡院と呼び、本地は釈迦牟尼仏であった。当時は天台派と真言派の確執があり、応仁2年(1468)天台派の指導者・宣澄が真言派に暗殺された。その後、宣澄の怨霊により真言派は山内から退転した。現在、中社には21の宿坊があり、戸隠講の御師として各地を巡回している。
中社の祭神は、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)であり、天照大神が天の岩戸に隠れた際に天岩戸開神楽を考案した神である。

社殿の右手奥に、飯縄山の清流、さざれ滝というかわいい滝が流れ落ちている。

社殿右手(東側)には、できて間もない青龍殿という宝物館がある。主な展示品としては、重要文化財の「通天牙笏」、平安時代作の不動明王御正躰、江戸時代作の飯縄権現立像などがある。なかでも「通天牙笏」は、天平時代作でアフリカ象象牙で作られており優品とされる。