半坪ビオトープの日記

善光寺、鐘楼


本堂の左手前(東側)に「御百度詣数取」が建っている。ここから三門の間を御百度参りする回数を数えるのに使う。4セット4人分ある。

さらに左(東南)側の高い石垣の台上に鐘楼が建っている。嘉永6年(1853)の再建で、柱は南無阿弥陀仏の名号に因み6本で、屋根は檜皮葺きである。梵鐘は、寛文7年(1667)の鋳造で、寄進者は1,115名とされる。高さは1.8m、口径が1.16mあり、重要美術品に指定されている。元の銅鐘(大鐘)は、正和2年(1313)に造られたが、川中島の決戦の前に武田信玄が甲斐(甲府)まで運んで、今でも甲斐善光寺にある。

本堂の右奥(東側)を見ると、奥行き約53mで、日本で国宝に指定されている木造建築の中で3番目に大きいとされる。善光寺は、天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されているが、日本において仏教が諸宗派に別れる以前からの寺院であるとして、無宗派の寺院と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女人救済が特徴とされる。

本堂右奥を進むと、千人塚と呼ばれる赤い簡素な供養塔が建っている。
これは慶長5年(1600)頃、海津(待)城主森忠政の行った厳しい検地に対して百姓一揆が起こり、その時に処刑された人々の供養塔といわれている。
また、この塚は別名「二斗八塚」といい、延宝2年(1674)の二斗八騒動(年貢取り立てに対する旧高田村での直訴)で処刑された人々の供養塔とも伝えられている。

本堂の裏手に、朱色の柵と塀に囲まれた「大本願廟所」があるが、詳しいことは分からない。

その大本願廟所の右手(東側)に、石玉垣に囲まれた「徳川家大奥供養塔」がある。
本理院(家光の正室)、紅玉院(本理院養女、家光の次男綱重の正室)、麟祥院(家光の乳母阿福、春日局)、良雲院(家康の側室お竹)のほかに四基の墓碑がある。江戸で善光寺の出開帳が行われた際には、大奥の強い希望で前立本尊が江戸城内に招かれたという。

徳川家一族に善光寺信仰が篤かったのは、家康の生母お大の方(伝通院)が、幼少の頃から善光寺如来を持仏としていたためで、その持仏が伝通院の縁受院に祀られたのが小石川善光寺の起源で、伝通院は増上寺と並んで徳川家の菩提寺として篤く厚遇された。信州善光寺にも家康から十四代家茂まで寺領千石の朱印が安堵されている。

本堂裏手の左手(西側)には、供養塔がたくさん並んでいる。善光寺の外護職を務めていた松代藩真田家の寛永・寛文年間の供養塔である。