半坪ビオトープの日記

吉祥寺、本堂


参道の正面には臥龍庭があり、その右手に本堂入口の玄関がある。
鎌倉建長寺を本山とする臨済宗の禅寺・吉祥寺は、南北朝時代の暦応2年(1339)建長寺42世中厳円月禅師を開山和尚とし、大友氏時により創建された。普光殿とも呼ばれる本堂は、天正年間(1573~92)の兵火で焼失したが、延宝3年(1675)に再建された108坪の山内最大の建物である。

本堂内陣には、虚空蔵菩薩像と当山1世・2世像が安置されている。開山の中厳円月禅師は、青年期に入元し、中国禅僧に師事して臨済宗を極め、東陽徳輝和尚の法統を継いだ人で、帰朝後、大友貞宗に尊信され、その庇護の下に中央で名を成した。吉祥寺開創後、鎌倉円覚寺に籍を置き、京都万寿寺の住持となり、後に建長寺の住持となった。開山2世の大拙祖能禅師は、中国の元に渡り参禅し、千厳から印可を受けた後に帰国、当山2世に住持し、三代将軍足利義満の帰依を受け鎌倉建長寺に招かれた。

本堂廻廊の欄間には、躍動感あふれる彫刻が施されている。とりわけ鳥の彫刻が多いように見受けられた。

左の方の彫刻には人馬なども登場するが、どのような構図なのかは分からない。内陣では法要が行われているようなので、残念ながら虚空蔵菩薩像や狩野探雲筆の花鳥図屏風などを見ることはできなかった。

廻廊からは本堂南側の石庭・臥龍庭が正面に見える。武尊石・杉苔・白砂の砂紋が織りなす枯山水で、水の流れ、雲の流れに横たわる龍を表している。

右前に見える釈迦堂の茅葺屋根が古刹の趣を添える。

本堂西側の岩山から昇竜の滝が流れている。群馬の名峰武尊山から切り出した武尊石を積上げてできている。そもそも川場村の地名の由来は、川が多いところからきたもので、「薄根川」「桜川」「溝又川」「田沢川」「田代川」の五つの清流が武尊山の南麓に流れている。その一つ「溝又川」からの流れが「昇龍の滝」をはじめとする吉祥寺境内の滝や流れの源となっている。

本堂の西から北に廻廊をたどっていくと、青龍の滝が二段になって流れ落ちている。河波姫の伝説から「出逢いの滝」とも呼ばれている。吉祥寺開基は大友家8代氏時だが、大友家初代能直(よしなお)誕生にまつわる源頼朝と利根局(河波姫)のロマンスとして、今でも吉祥寺に語り伝えられている伝説がある。藤原時代のこの利根庄は相模守波多野氏の領地であった。その波多野四郎の娘は河波姫と称していた。この河波姫と流浪の身であった若き頼朝のもうけた子が、豊後大友家の開祖となった大友能直だという。鎌倉幕府創立後、赤城の狩りに出た折、頼朝は離ればなれとなった河波姫を探し、ついに青龍の滝の下で、源氏再興を祈願していた河波姫と再び出逢ったそうだ。
右手前の岩は、見た目がフクロウの顔に似るとして「幸ふくろう岩」と呼ばれている。

青龍の滝に面する本堂裏手には、いくつかの仏像などが祀られているが、詳細は分からない。

こちらにはいろいろな観音菩薩像が祀られている。一番右に立つのは、十一面観音菩薩像である。