半坪ビオトープの日記

花咲武尊神社


片品村花咲の村はずれにある武尊神社は、保高明神、保鷹明神あるいは宝高明神ともいわれ、利根郡76村の武尊神社の総鎮守と呼ばれた。
武尊山は山伏修験道の神山として崇められてきたが、この山が開かれたのは、花咲に華蔵坊という山伏が修験道場を建て、それが現在の花咲の花咲山法称寺のもとになったと伝えられている。文明2年(1470)初めて山伏修行の寺が建てられ、山号武尊山と称し、花咲の武尊神社の別当でもあった。江戸時代になり一時修験道はさびれたが、寛政2年(1790)再び復活し、武尊山は主要な修行の場となった。

武尊神社の発祥は、「上州武尊山(岡田敏夫)」によると、建治2年(1276)の創建という。「片品村史」によれば、天文17年(1548)に武田信玄が鰐口奉納したという。元禄4年(1691)に社殿再建の記録があり、大正5年(1916)頃に社殿改築を行い、井上円了揮毫の記念碑が建てられている。

武尊神社の御神体は黄金の御幣で、毎年行われる奇祭に「猿追い祭り」がある。この祭りは、その昔、武尊山麓の猿岩というところに白毛の大猿が住み、村人を苦しめていたので、武尊様に願い猿を追い回して退治したことから始まった。旧暦9月の中の申の日に行われる。大字花咲の鍛冶屋、山崎、登戸、栃久保、粟生、針山の六つの集落が参加する祭りで、組という地縁集団とイッケと呼ぶ同族集団が、特定の役割を分担して行われる。参加者の席次が固定し、役を務めることのできる家が特定されるなど、東日本には珍しい宮座的な組織によって行われる貴重な行事であり、幣束を持つ猿役が登場する祭りとして知られている。300年以上前から続くとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

祭神は穂高見命、その後、日本武尊東征の古事の史歴により尊も祭神として合祀された。明治41年に神社統合があり、諏訪神社を始め村内の各社28社が合祀されている。
片品村西部にある武尊山には、前武尊、剣が峰、奥武尊の三峰が聳えている。その前武尊山頂と奥武尊山頂の2ヶ所に日本武尊銅像が建てられ、前武尊の像は花咲、奥武尊の像は川場の像で、それぞれその地区を向き、見守っているといわれる。この地域には日本武尊伝説が多く残っている。昔、武尊山に悪者がはびこり村人を困らせていた。それを聞いた日本武尊が討伐に出向いたという。形勢不利と見た悪者の首領夫人は、土出という所に逃げようと山麓片品村の花咲集落に下りたが力尽きて息絶えたという。そのとき首領夫人の霊魂により石に花が咲いたと伝える「花咲石明神」が、現在でも花咲集落中心部にある。

この神社より分霊勧請した武尊神社は、利根沼田地域に18社ある。本殿は片品村重要文化財に指定されている。

社殿の裏には50を超えるたくさんの石祠が並ぶ。猿追い祭りの時には、甘酒は酒番、赤飯は櫃番という当番家により、全ての石祠に甘酒と赤飯が供えられる。

広い境内の左手奥には不動堂が建っている。

堂内には、不動明王が祀られている。

不動堂の右手には、八坂神社が建っている。牛頭天王宮という農家の守り神として花咲の各集落にあり、8月下旬に4台の山車がここに集まり、若連が八木節を踊って盛大な祇園となるという。

境内入口に近い右手には、諏訪宮という扁額が掲げられた諏訪神社が、二つ並んで建っている。

どちらも覆屋で、中には勾欄を四面に回すお堂造りの本殿が安置されている。こちらが、鳥居が建っている左の諏訪神社の本殿である。