半坪ビオトープの日記

ローマ劇場跡、織物装飾博物館


フルヴィエールの丘は古代ローマの時代、ルグドゥヌム(神の丘)と呼ばれ、リヨン建設の始まりとなったが、市内のほとんどの場所から見ることができるのと同じく、ここから市内のほとんどを眺めることができる。こちらは北東の方向で、眼下にソーヌ川が見え隠れする。

ノートルダム大聖堂の南西側に古代ローマ遺跡が展開している。

ここの古代ローマ劇場は紀元前43年に造られたリヨンが、古代ローマの繁栄を今に伝える円形劇場の遺跡である。

リヨンには現在もローマ時代に建てられた2つの円形劇場が残されていて、そのうちの一つがローマ帝国の初代皇帝でもあるアウグストゥスによって建てられた大劇場(le Grand Théâtre)である。

紀元前15年頃建設された大劇場は約1万人を収容した。観客席から見るとステージの裏側、円柱の立っているところには高さ30mの壁があって、観客席から外部の風景を見ることはできなかった。当時の模型は、大劇場の右手、北側に建っている博物館で見ることができる。

大劇場の南側に隣接してオデオンと呼ばれる小劇場がある。こちらも3000席があり、大劇場と合わせて、現在でもコンサートや演劇の上演に利用されている。

古代ローマ時代には円形劇場のほか、公衆浴場や円形闘技場などの施設がたくさん造られた。

現在、この円形劇場遺跡は考古学公園として整備され、右手のガロ・ロマン文化博物館では周辺から発掘された出土品が展示されている。

円形劇場の下の駅からも、ケーブルカーで丘の麓に下ることができる。織物博物館に向かうため新市街を歩くと、昨晩見かけたアンペール銅像に再び出会った。アンペールは1775年にリヨンで生まれ育ったが、父はフランス革命の1793年、国民公会の軍隊により投獄後、断頭台で死刑となった。フランス法廷に勤めていた父は、フランス革命は行き過ぎであるという態度を断固として崩さなかったためである。アンペールは1804年にリヨン大学の数学教授になり、その後パリでも数学教授を務めた。アンペールアンペールの法則や右手の法則など電気と磁気の関係を明らかにし、電磁気学創始者の1人となった。電流のアンペアは彼の名にちなむ。

フランスでは各都市で貸出自転車制度が発達しているが、リヨンが自転車所有数国内1位である。市内348カ所に「Vélo’V」というこのようにレンタサイクルの停留所があって、4000台も登録されている自転車をクレジットカードで簡単に借りることができる。30分以内に次々に停留所に返却しながら乗り換えていけば、一日1.5ユーロのチケット代金だけで乗り放題となる。もちろん、30分以上の場合は移動距離に応じた料金が必要で、罰金は150ユーロ、保証金も同額預けることになるが。市内のほとんどの観光地が30分以内に移動できるリヨンでは利用価値が高い。

リヨンは昔から絹と織物の街として知られている。リヨンを流れるローヌ川とソーヌ川の二つの大河に挟まれたプレスク(Presqu、半島)にあるリヨン織物装飾芸術博物館は、この地の絹織物産業で誕生した豊富な織物作品と産業の歴史を余すところなく伝える博物館である。この織物博物館はリヨンのみならず世界の織物芸術の歴史を語るミュゼであり、織物芸術の分野でヨーロッパ最大級の規模を誇っている。1864年にリヨン商工会議所により「美術工芸博物館」として創設され、それを受け継いだ形で18世紀に立てられたヴィルロワ邸に開館した。東洋部門ではコプト文明の織物に始まり、ペルシャ絨毯、ビザンチン式織物、イスラム教徒の布アイテム、18-19世紀の日本の着物が展示されている。西洋部門ではヨーロッパのテキスタイルの幅広い歴史が、スペイン、イタリア、イギリス、ドイツ、フランス(特にリヨン)で織られプリントされた生地、刺繍、レースや縁飾り、コスチューム、聖職者の衣装などを通じて概観できる。特に18世紀後半の宮廷関係のコスチューム類のほとんどがリヨン製であり、リヨンはこのとき最も発展したといわれる。明治時代には日本の西陣織業界もリヨンから先端のジャガード織りを学んで、西陣織の世界に技術革新を起こして現代に伝えてきた。富岡製糸工場が建設される際にも、リヨンから技師が招かれたという。素晴らしい織物の展示が延々と続くが、残念ながら室内の撮影は禁止である。

織物博物館に隣接する装飾芸術美術館では、タピストリーや絨毯などが実際の室内の用途に従って展示されている。

室内の佇まいは18世紀スタイルに装飾されており、数多くの工芸品や高級家具、金銀細工品は、フランスでも名高い装飾美術館の一つとして挙げられている。

イタリアのルネサンス後期の陶磁器やセーヴル焼きなども展示されている。ヨーロッパ陶磁器界でも他の追随を許さないセーブル焼きは、1756年、ルイ15世の寵愛を受けたポンパドール夫人の提案で王立御用達ヴァンセンヌ窯がパリ・ヴェルサイユの眼下セーブルの地に移されたことに始まる。1759年、王立セーブル製陶所となり、国窯として2世紀半もフランスの美を伝える優れた陶磁器を生み出し続けている。

こちらはイタリアルネサンス期のマヨルカ焼きと思われる。

織物装飾芸術博物館見学の後、昼食場所を求めて市内をうろつく。ここは印刷博物館の近く、サン・ジュニ教会(Église St-Nizier)の裏手である。