半坪ビオトープの日記

フォロ・ロマーノ


マクセンティウスのバジリカの右手に、サン・フランチェスコ・ロマーナ教会が建っている。教会の右手には考古学博物館があり、その右手にティトゥス帝の凱旋門が建っている。

ティトゥス帝の凱旋門まで下って行くと、その後ろにはコロッセオが認められる。ティトゥス帝の凱旋門は、82年、ローマ帝国第11代皇帝ドミティアヌスにより、先代皇帝でドミティアヌスの兄でもあるティトゥスエルサレム攻囲戦等での戦功を称えるために建てられた。ティトゥス帝は、在位中に起きたウェスウィウス(ベスビオ)火山の噴火、ローマの大火、疫病流行に際して、積極的に罹災者の救護、施設の復旧にあたるなど、寛大で人道的な政策により民衆の人気が高かったとされる。ローマに現存する最古の凱旋門であるこの凱旋門は、16世紀以降に建てられることとなる凱旋門のスタイルの手本とされ、その中にはパリのエトワール凱旋門がある。

ティトゥス帝の凱旋門からフォロ・ロマーノを西北西に進み、突き当たりのカピトリーノの丘にあったユピテル・オプティムス・マキシムス神殿に奉献するのがかつてのローマの凱旋式だった。その道を聖なる道(ウィア・サクラ)と呼ぶ。右手には先ほどパラティーノの丘から見下ろした大きなマクセンティウスのバジリカがあり、下から左手を見上げればファルネジアーニ庭園のテラスが見える。その手前の遺跡は、ヴェスタの巫女の家である。

ヴェスタの巫女の家は右手にずっと連なっていて、その先にはヴェスタの神殿がある。ヴェスタはローマ神話に登場する女神で竈の神、転じて家庭の守護神でもある。巫女・ヴェスタ神官は貴族階級の少女より選ばれた。ヴェスタは処女神とされ、その巫女も神官である間は処女が義務付けられ、この規律を犯したものは生き埋めによる死罪が課せられた。

フォロ・ロマーノの遺跡は広すぎてなかなか一望できない。左手のヴェスタの巫女の家並が終わり、正面に見えるのはカストルポルックス神殿の3本柱である。その右手に見える横に大きな建物は現ローマ市庁舎で、その低層部にかつてのタブラリウム(公文書館)が残っている。

右手には、円形ホールが目立つロムヌスの神殿が建っている。4世紀初めに建てられたとされ、簒奪皇帝マクセンティウスが夭折した息子ロムルスのために建てたと考えられている。両脇にあったホールはほとんど崩れ、右側のポーチの二本の柱だけ立っている。
その先の神殿は、アントニヌスとファウスティーナの神殿という。141年にアントニヌス・ピウス帝が皇后ファウスティーナを偲び建造させた。ピウスが死去した後、後継のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝により二人を共に祀る神殿とした。ファサードには緑色の石で造られた6本の円柱が並び、白色大理石で造られたコリント式の柱頭が飾られている。ポルティコの側面には2本の円柱が並ぶ。円柱の高さは17m。

アントニヌスとファウスティーナの神殿の前にあるこの廃墟は、カエサルの神殿である。紀元前29年にアクティウムの海戦に勝利したオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)が神君カエサルを記念して建てたプロスタイル式(前柱廊下式)の神殿であり、カエサルの遺体が火葬された場所に建てられている。

紀元前44年3月15日、ブルータスら14名の実行部隊により暗殺されたカエサル。3月18日、カエサルの火葬はここで行われた。火葬場所には今も花束が置かれている。

カエサルの神殿の左手(西南)にカストルポルックス神殿が建っている。紀元前495年、レギッルス湖畔の戦いの勝利への感謝を込めて建設された。カストルポルックスはディオスクーロイまたはジェミニ(双子)と呼ばれ、ゼウス(ユピテル)とレーダーの双子の息子を意味する。その信仰はギリシアからマグナ・グラエキアを経由して南イタリアギリシア文化とともにローマにもたらされた。紀元前14年、フォロ・ロマーノの大部分が火災で焼け落ちこの神殿も壊れた。それを紀元6年に再建したのは、後に第2代皇帝となったティベリウスである。他の建物同様この神殿も15世紀の長きに渡り廃墟と化していたが、15世紀には3本の柱だけは残っていた。

聖なる道もいよいよ西端のサトゥルヌス神殿に至る。ここまでのフォロ・ロマーノを振り返ってみると、左手にはフォカスの記念柱が建っている。601年、東ローマ帝国皇帝フォカスを称えて、ロストラ(演説台)の前に建立され、フォカスに献納された石柱(コロンナ)である。白大理石製の立方体の台石の上に、コリント式の13.6mの円柱が聳えている。石柱は2世紀頃製作されたものの転用とされる。
フォカスの記念柱の右手、アントニヌスとファウスティーナの神殿の手前の廃墟は、エミリアのバジリカ(公会堂)である。初代は紀元前179年に建てられ、現在の遺跡は紀元前34年に建てられたもので、大きさは100m×30mだった。
聖なる道の右手には、カストルポルックス神殿の3本柱が見える。

さて、聖なる道の突き当たりのカンピドリオの丘にはタプラリウム(公文書館)が建ち、左手前にはイオニア式のサトゥルヌス神殿が建っている。ローマ神話の神サトゥルヌス(英語:サターン)は農耕神で、ギリシア神話のクロノス同様、時の神、土星の守護神ともされる。最初に建造されたのは紀元前5世紀。2代目は283年に火災で破壊され、現在の廃墟は3代目の神殿である。ほとんど崩壊して正面のポルチコ部分として8本の柱とペディメントの一部だけ残存する。

サトゥルヌス神殿の向かい、カンピドリオの丘の麓には、大理石製の白い凱旋門が建っている。高さ20.88m、幅23.27m、奥行き11.20mと、ローマに残る3つの凱旋門の中で2番目に大きい。セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門は、皇帝とその息子カラカラとゲタの第6次パルティア戦争(194-199)での勝利を記念して紀元203年に建設された。セヴェルス帝の死後、カラカラとゲタは共同皇帝として即位したが、212年にカラカラがゲタを暗殺した。そのためゲタを記念した彫刻は、この凱旋門も含め建築物や記念碑からことごとく削除された。3つのアーチ道は橋脚で支持されていて、南の橋脚には記念碑の頂上まで続く階段があり、そこに兵士を従えた皇帝と2人の息子が四頭立て戦車(クアドリガ)に乗っている様子が描かれている。

大急ぎで見学したフォロ・ロマーノの出口はエミリアのバジリカの東にあり、そこまで戻る必要がある。エミリア一族により紀元前179年に建てられたエミリアのバジリカは、裁判や商取引など多目的に利用されていた会堂であった。その先に見える四角い建物は古代ローマの政治の中心地であった元老院議事堂(クーリア・ユリア)である。先ほどのセヴェルス帝の凱旋門がその左に見える。

一段高い道路に出ると、長い間土に埋まっていたフォロ・ロマーノが見渡せる。広いエミリアのバジリカ跡には、床下の列柱の基底が並ぶ様子が認められる。