半坪ビオトープの日記

パラティーノの丘


コロッセオの西側から北西に向かって、古代ローマ時代の中心地の遺跡・フォロ・ロマーノが広がっているが、その南側には古代ローマ建国の地といわれるパラティーノの丘がある。コロッセオの南側には大きなコンスタンティヌス帝の凱旋門が建っている。高さ21m、幅25.7m、奥行き7.4m。3つの門を有し、ローマにある凱旋門では最大である。312年、当時西ローマの副帝であったコンスタンティヌスは、サクサ・ルブラで正帝マクセンティウスの軍団を撃破し、ミルウィウス橋でマクセンティウスを溺死させ、ローマに入城した。その勝利を記念して315年に建てられたが、表面を飾る数々のレリーフは、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝などの建物から転用されている。

コンスタンティヌス帝の凱旋門から南に進むと右側(西)にパラティーノの丘への入場口がある。パラティーノラテン語:Palatinusuパラティヌス、イタリア語:Palatino)の丘は、ローマの七丘のうちで最も古いといわれる。伝説によると、紀元前753年4月21日、この地でロムルスが弟レムスを殺してローマを建国したという。その後貴族の邸宅が建てられ、のちに初代皇帝アウグストゥスを筆頭に歴代皇帝の宮殿が建てられたため、イタリア語や英語で宮殿(Palazzo,Palace)を意味する語の語源となった。

丘の大部分を占める遺跡は、大きくドムス・フラヴィア、ドムス・アウグスターナ、ドムス・セヴェリアーナの3区域に分かれる。発掘調査によれば、紀元前1000年ごろには人が居住した痕跡が見つかっている。
入口を通ってすぐの遺跡は、丘の上の3大遺跡よりかなり下った所のもので名もない遺跡だが、丘の斜面にも随所に建築物があったことがわかる。

大きく蛇行しながら丘の上まで登りつめると、ドムス・セヴェリアーナの遺跡が見えてくる。
ドムス・セヴェリアーナ(ラテン語:Domus Septimi Severi)とは、20代皇帝ルキウス・セプティミウス・セウェルス(193-211)が2世紀末より3世紀初めにかけて建てた邸宅群である。先に建てられていた西のドムス・アウグスターナと地盤レベルを合わせるために、ローマン・コンクリートで造られた人工地盤を構築した上に建てられていた。16世紀にほとんどすべてが取り壊されたため、現在残っている建造物は人工地盤より下の部分である。

セウェルス帝は有名なカラカラ浴場を造ったカラカラ帝の父である。ちなみにこのドムス・セヴェリアーナと次のスタディオンとの間にマクセンティウス浴場があり、そこにはクラウディア水道から分岐した水道橋が直結されていた。そのクラウディア水道は、皇帝カリグラが38年に建設をはじめ、皇帝クラウディウスが52年に完成させたローマ水道で、水源から約69km離れた帝都ローマに水を供給していた。水量は184,280㎥/日で、水質も良質だったという。

ドムス・セヴェリアーナの遺跡の壁際にアカンサスの大きな株を見つけた。キツネノマゴ科アカンサス属のアカンサス(Acanthus mollis)は、大型の常緑多年草で、地中海沿岸原産。アザミの葉に似たギザギザの葉は、古代ギリシア以来建築物や内装の装飾のモチーフによく使われ、ギリシアの国花となっている。ギリシア語の「akantha(とげ)」が語源である。

ドムス・セヴェリアーナの隣(北西)には、大きなスタディオ(Stadio)がある。11代皇帝ドミティアヌスが、ドムス・フラヴィアやドムス・アウグスターナと同時期に建てた施設で、競技場という説と、皇帝の私設庭園という説がある。

スタディオの周囲は2層の柱廊で囲まれ、広場の南半分の地面に楕円形の建物跡が今でも残っているが、それは東ゴート王国の初代国王テオドリックの時代に造られた円形競技場の跡らしい。
スタディオの隣(北西)にはドムス・アウグスターナと呼ばれる宮殿跡がある。11代皇帝ドミティアヌスが建てた公邸で、ドムス・フラヴィアとともにパラティヌスの丘中央部のほぼ全てを占めていて、アウグストゥスやネロ、ティベリウス等が建てた建物群を撤去した跡に建てられた。
その右隣に見える白い建物はパラティーノ博物館で、旧石器時代青銅器時代を含めこの丘で出土した彫刻や工芸品などの考古資料が数多く展示されている。

ドムス・アウグスターナの中央には柱廊に囲まれた半地下の庭ペリスティリウムがあり、その中央には泉があって、夏季は冷房の役割も果たしていた。約12m高いレベルにある上層階には、公邸執務室群や皇帝の居住区画などがあった。

ドムス・アウグスターナの隣(北西)には、官邸として同時期に建てられたドムス・フラヴィアがある。建築家ラビリウスの設計で、ドミティアヌス帝就任直後の81年から92年の間に建設され、その後約300年にわたりローマ帝国皇帝の官邸として利用された。

ドムス・フラヴィアの中央、正面建物の右手には、列柱に囲まれた中庭があり、大理石で造られた楕円形の噴水(ニンファエウム)がある。中庭の両端には「皇帝の間」や「正餐の間」などがあったという。広大な敷地のあちこちに建物の残骸が残され、往時の華やかさが偲ばれる。

ドムス・フラヴィアやドムス・アウグスターナの西南側は標高が低くなっていて見晴らしが良い。横に長く続く野原は、チルコ・マッシモ(Circo Massimo)と呼ばれる古代ローマ時代の戦車競技場跡である。ラテン語でキルクス・マクシムスは、最大の競技場を意味し、想定収容人数30万人の公共娯楽建造物だった。ここで最も有名なイベントは、映画『ベンハー』でお馴染みの戦車レースであり、ディオクレティアヌスの時代には観客席の上層部が崩壊して13,000人が死亡するという悲惨な事故が起こった。何度も再建されたが、トラヤヌスが再建したチルコ・マッシモは、帝政ローマ初期の歴史家ハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、全長600m、幅の平均は200mだったという。

ラティーノの丘には、博物館の他にもリヴィアの家、アウグストゥスの家、ロムルスの家や、ネロの地下通路、ファルネジーニ庭園など見所がいくつもあるが、残念ながら建物の中を見る時間がなかった。ここはファルネジアーニ庭園のテラスのすぐ下である。反対側にはこれから向かうフォロ・ロマーノが見える。

これがファルネジアーニ庭園のテラス下から見たフォロ・ロマーノの見晴らしである。正面の大きな公会堂が、マクセンティウスのバジリカである。テトラルキア時代のローマ帝国皇帝マクセンティウスが308年に建設を始め、ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破って帝国を再統一した皇帝コンスタンティヌス1世が312年に完成させた。建物全体は幅65m、高さ100mで、中央の身廊は幅25m、奥行き80m、高さ39mと巨大だった。古代ローマでのバジリカの役割は、巨大なホール(身廊)を利用しての元老院議事堂や裁判の場であった。キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世やその後継者たちは、このバジリカの建築様式を教会堂の建築に適用した。後に、「バジリカ」とは巨大な教会堂建築様式を指す言葉に変容したのである。