半坪ビオトープの日記

岩井温泉、御湯神社


鳥取砂丘は以前に観光しているのでやり過ごし、東隣の岩美町に入る。岩美町の「浦富海岸」は、悪天候で遊覧船に乗り損なったことがある風光明媚のリアス式海岸だが、今回も残念ながら立ち寄る時間がない。代わりに道の駅「きなんせ岩美」に立ち寄る。「きなんせ」とは、鳥取弁でおいでくださいの意だという。ここでは松葉蟹を始め浦富海岸周辺の日本海で獲れた新鮮な魚介が評判だ。大きな岩牡蠣が美味しそうだったが、やはりちょっと高め。岩井温泉の宿で出ることを期待して我慢した。

浦富海岸から約5kmの山間にある蒲生川の辺りに、平安時代から日本の古湯の一つといわれる岩井温泉がある。その温泉街の外れの山麓に御湯神社がある。読みは、みゆじんじゃ、おんゆじんじゃ、おゆじんじゃなど諸説あり、祭神が御井神であることから御井(みい)が訛ってみ湯神社となったとも考えられている。

御湯神社の創建は、弘化2年(811)、岩井温泉を発見したとされる藤原冬久(左大臣藤原冬嗣の後裔)が温泉の守護神として勧請したのが始まりと伝えられている。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社で、当地域の中心的な神社として崇敬されてきた。

当初は大野台地に鎮座していたが、大野地区の集落が衰退し祭祀に支障が生じてきたため、宝暦2年(1752)に同地区に鎮座していた伊勢宮(大野宮:祭神猿田彦命)と合祀して現在地に遷座した。その後、伊勢宮と称していたが、明治時代に入り旧社号である御湯神社に復した。
長い石段の先に建つ隋神門は、通路部分の屋根が一段高くなっている見慣れない形の門で、切妻、八脚、三間一戸、桟瓦葺である。

隋神門をくぐると手水舎のある広場に出て、さらに石段を上がると拝殿に至る。

拝殿は入母屋、銅板葺、妻入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は素木板張り。

拝殿に掲げられている神紋は、丸に左三つ巴。毎年4月の例祭には、伝統神事の「麒麟獅子舞」が奉じられる。

本殿は一間社流造、銅板葺、外壁は素木板張り。祭神として、御井神(大国主命の御子)、大己貴命大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命を祀る。八上姫は古代因幡を治める絶世の美女だった。出雲の皇子たちがこれを妻にしようとはるばるやって来る。その途中、海岸で傷つき倒れたウサギと出逢うが、皇子たちはウサギを欺き嘲って、傷つくのを眺めて悦に入った。その一行から遅れて、皇子たちの荷物運びをさせられている大己貴命が通りかかる。彼はウサギに親切にし、治療してやった。これが有名な『因幡の白兎』の話である。そのウサギは八上姫の飼いウサギだったので、事情を聞いた八上姫は大己貴命を婿とした。これを機に大己貴命は大成し大国主命となるが、それを妬んだ皇子たちが大己貴命を殺そうとするので出雲国に逃げた。大国主を慕う八上姫は出雲国に向かったが、そこで正妻となっていた須世理姫の嫉妬に恐れをなし、大国主の子を産み落とし、木の俣にかけて因幡の国に帰った。その子が木の俣の神、別名御井の神である。

境内には拝殿の右手に稲荷神社が祀られている。

左手には、藤ヶ森神社が祀られ、その右に矢研石がある。藤ヶ森神社の祭神は別雷神である。

矢研石とは、平敦盛の次男で「王城一の強弓精兵」と呼ばれた能登守平教経が利用したと伝わる石である。茂る草で見分けにくいが、割れた石のような割れ目があって、そこで矢を研いだというのであろう。