半坪ビオトープの日記

都萬神社


西都原古墳群に向かって、西都市の中心地妻の市街地を北に抜けると、都萬神社の森が見える。近くに屯倉設置の推定地や日向国国府跡もあり、古代の中心地で日向国総社ともされる。なお、本居宣長以来古くから、当地の地名「妻」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説があるが、確証はされていない。

延喜式神名帳にある、都農、霧島、江田と並ぶ日向式内四座の一つで、創祀は不詳だが、社蔵の棟札に承和4年(837)建立とあり、『続日本後記』にも承和4年に官社に預かったとある古社とされる。日向国衙の在庁職にあった日下部氏は当社の神官も務め大きな影響力を持ったが、室町時代以後の当社は伊東氏から庇護された。中世には、妻宮、妻万宮、日向総廟五社大明神などとも呼ばれていたという。江戸時代には領主の島津氏からの崇敬も受け、神領315石が安堵された。
12坪の拝殿は、昭和43年に造営された入母屋造である。

祭神として、瓊瓊杵命の妻である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る。近くには『記紀』にも記される夫婦神瓊瓊杵尊木花開耶姫の伝説に因む地名がある。二神が見初めあったという逢初川、新婚の住居である八尋殿、三皇子を生んだ産殿跡の無戸室、三皇子の産湯として使った児湯の池などである。瓊瓊杵尊木花開耶姫が逢初川で見初め逢い、事勝国勝長狭神の仲人により日本最初の正式な結婚式が八尋殿で挙げられ、新婚生活を始めたが結婚一夜にして懐妊された。瓊瓊杵命が自分の子であろうかと疑われたのを恥じた木花開耶姫は、身を以て貞節を示さんと無戸室産殿に火を放ち「もし貴方の子でなかったら私は焼け死ぬでしょう。貴方の子であれば無事に産まれるでしょう」と誓いを立て、無事に三皇子を産んで純潔を示したと記されている。

拝殿内右には、報徳2年(1450)日下部成家が奉納したという銘文を持つ大太刀が安置されている。刃渡り約2.4mで、3.57mの長さがあり、日本一の長さという。

12坪の本殿は、江戸時代初期建立であり、桃山様式の3間社流造丹塗りで、西都市文化財に指定されている。

境内にある大楠は、推定樹齢1200年、目通り幹囲10.3mの「妻のクス」として、国の天然記念物に指定されている。最盛期には樹高40m、枝張り南北34mを誇っていたが、何度か災害を被り、主幹15mのみが遺存している。宮崎の巨樹百選にも選ばれている。

境内右側には、千年クスの洞洞木がある。台風によって折れた神木の楠で作られた木洞で、くぐり抜けると願いが叶うという。その左には日本清酒発祥の地の柱が立つ。『日本書紀』の中で、木花開耶姫の三皇子出産の部分に、姫が占いによって定められた田を開き、収穫された稲で酒と御飯を造り、天照大神に供えたとある。米から酒を造った最古の伝承で、神社近くに「酒元(さかもと)」という地名もある。三皇子を産んだ時、母乳代わりに甘酒で育てたという言い伝えもあり、お乳の神様とも呼ばれる。

手水社手前、右側の阿形の狛犬は、犬のような垂れ耳をしている。

左側の吽形の狛犬も、犬そっくりである。狛犬とはいうが、普通はほとんどが獅子顔なので、文字通りの犬顔は極めて珍しい。

この祇園神社では祭神として須佐之男命を祀っている。八坂神社とも呼ばれている。

摂社の大山祇神社本殿は、江戸時代初期建立の1間社流造で、西都市文化財に指定されている。祭神の大山祇神は、都萬神社の祭神である木花開耶姫命の父神である。

左には霧島神社、右には四所神社が並んでいる。霧島神社は祭神として瓊瓊杵尊を祀っている。四所神社の祭神は、磐長姫命豊受姫命天児屋根命太玉命である。

一の鳥居の先にある太鼓橋を渡ってすぐの右奥に、小さな稲荷神社がある。