半坪ビオトープの日記

都農神社、神楽殿


宮崎県の中部、宮崎市延岡市のほぼ中間に位置する都農(つの)町に、都農神社がある。西参道の鳥居が国道10号線近くに建っている。

都農神社は、日向国一宮として、地元では「一の宮様」と呼ばれ、明治以前は「宮崎社」「宮崎宮」とも称していた。駐車場から表参道に出ると、太鼓橋(神橋)の先に神門(南大門)が見える。

太鼓橋の左手前に「あぶら石」がある。昔、近くの都農川が増水した時に、町民が遥拝できるように都農川の対岸に設置されていたもので、川に橋が架けられたため神社に奉納された。この石に油を注ぎ、火を灯していたのであぶら石と呼ばれるようになったという。

都農神社は、延喜式神名帳に記載される式内社として知られ、当時は壮大な社殿と広大な境内を有する日向国第一の大社であったと伝えられている。都農町一帯には縄文時代以来の遺跡が分布するほか、円墳や前方後円墳など20基以上の都農古墳群もあり、当社付近からも土器・石器類が出土している。このように早くから人が居住していたことが知られ、守護神としての歴史も太鼓の昔に遡るものとされる。
社殿のある境内は、神門とその両側に伸びる瑞牆で囲まれている。重厚な神門は昭和16年に竣工されたものである。

祭神は大己貴命で、大国主命と同じである。古くからの都農町一帯の守り神であることから、土地の神として大己貴命を充てたものであるとされる。日向国(宮崎県)には大きな神社が沢山あり、そのほとんどが瓊瓊杵命の天孫降臨神武天皇の東征以前に関わる、いわゆる天孫族を祀る神社なのに比べ、天孫降臨以前からこの国を治めていたとされる国つ神の大己貴命大国主命)を祀るのは特異である。鎌倉時代の類書『塵袋』には「吐乃(つの)大明神」とあり、『塵添壒囊抄』はそれに追書して疱瘡の治療に霊験あらたかであると載せている。また田畑の虫害を除くとの信仰もあった。
神門の内側には「撫でウサギ」が安置されている。『記紀神話』に出てくる大国主命に助けられた因幡の白兎に因むウサギで、撫でると無病息災等のご利益があるとされる。

もう片方には、「撫で大国」が安置されている。撫でウサギはよく見かけるが、撫で大国は珍しい。こちらも撫でると病気平癒・商売繁盛・子授け・夫婦円満等のご利益があるとされる。

神門をくぐった左側に神木の夫婦楠がある。相生の楠ともいわれていたが、現在は一本は枯れて根元のみとなっている。

神木の右に「神象」が安置されている。『日本書紀』によると、大己貴命は兄の八十神等に攻められ危うく命を落としそうになる。その時、大己貴命の母神である櫛名田比売命が大己貴命のことを案じ、「木の股」から逃がしたという逸話がある。都農神社の神木である夫婦楠の木の股から生まれ出た(彫られた)とされるこの象は、「大己貴命の化身である」として広く信仰を集めているという。

神門の内側の右手には、立派な造りの神楽殿が建っている。安政6年(1859)篤志家の寄進により建てられた旧拝殿である。
冬祭りは夜を徹して神楽が奏され、翌日例大祭が斎行される。当日は乳の病に悩む夫人が杓子を奉納すると治癒するとされる。

楽殿は、現在、神輿庫を兼ねており、獅子頭を蔵した風変わりな意匠の神輿が安置されている。都農町制施行(大正9年)と国幣社列格50周年(同11年)とを記念し新調されたもので、同規模のものは国内に数台しかないといわれる。
夏祭りは「御神幸祭」とも呼ばれ、神輿が都農町内を巡幸する。三韓征伐の時に神功皇后が当社祭神を守護神として舟に迎えたのに因むと伝え、一時中断していた時期もあったが、天保3年(1832)に再興された。