半坪ビオトープの日記

津山城跡、衆楽園


古代の吉備が3国に分国された後、和銅6年(713)に備前国から北に位置する美作国が分国された。鉄資源を吉備氏から直接大和政権の管理下において、吉備氏弱体化が図られたといわれる。
その後、美作には安定勢力が出現せず、周辺勢力の草刈り場となっていた。最終的に、関ヶ原の戦いで東軍に参加した小早川秀秋が、備前・美作両国を領するも、2年で改易された。小早川家断絶後、家康より森忠政美作国を受封し、津山藩ができた。翌慶長9年(1604)忠政は津山城の築城に着手し、城下町も整備しながら元和2年(1616)に完成した。

津山城は津山盆地の中央に位置し、吉井川の支流の宮川や丘陵の断崖を防御に利用する平山城で、元は鶴山という地名だったことから別名を鶴山城という。本丸と二の丸には御殿が置かれていた。現在は鶴山公園として桜の名所となっている。

公園の案内板の右に、「忘れ去られた石」がある。平成10年の台風10号通過後、津山市郊外の谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかった。石の重さは約2.3トン。近くに石切場跡があり、「忘れ去られた石」と名付けられ、平成16年、津山城築城400年記念にここに届けられた。

津山城には往時、外郭を含めて広島城の76棟、姫路城の61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並んで壮観であったといわれるが、明治6年の廃城令により5層4庇の天守閣や櫓などが破却され、現在は遺構の石垣や建物の礎石が残るほか、再建された二重櫓と土塀がある。

津山城跡の北約1kmに旧津山藩別邸庭園・衆楽園がある。総面積2万8千㎡で、後楽園よりも古く、国の名勝に指定されている。築庭当時の敷地面積は現在の3倍近くあった。

津山藩二代目藩主・森長継が明暦〜寛文年間(1655-72)に、小堀遠州流の造園師を京都より招いて築庭させた林泉回遊式の大名庭園で、京都の仙洞御所を模したものである。森家は途中で絶え、元禄11年(1698)に松平氏が藩主となって以後幕末までは、津山藩の対面所または藩主の私的な別邸として用いられた。明治3年に衆楽園命名され、一般公開された。

庭園の大半を南北に長い池が占め、四つの島が配されている。北の中国山地を借景とし、北の池は東と北の築山に迫られるように置かれ、東側には全長210mの曲水が設けられている。その中には老松が茂り、森閑たる様相を見せる。

対して南側は、海に見立てられた池が雄大な景観を醸し出している。その周りに余芳閣、迎賓館、風月軒、清涼軒といった建築が復元されている。山口誓子の句碑もある。「絲櫻 水にも地にも 枝を垂れ」

春の桜、夏の睡蓮、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季折々の風景を楽しむことができる。庭石や灯篭といった人工物は少なく、あくまで自然と一体化させているのが特色である。

お昼には城下町の城東地区にある郷土料理屋「よし乃」に寄った。津山の名物料理としては、2011年にB1グランプリにてシルバーグランプリ(2位)になった「ホルモンうどん」が知られるが、近年、「そずりうどん」も売り出されている。牛を解体したあと残る内臓を煮たり焼いたりホルモンとして食べるが、骨についている肉は削ぎ落として鍋で食べていたそうだ。その肉を「そずり」という。もちろん、ホルモンより美味しいこと請け合いだ。