半坪ビオトープの日記

津山洋学資料館、城東


津山城跡の東裾を流れる宮川に架かる宮川大橋を東に進むと旧出雲往来である。道が直角に曲がった鉤曲がりは、城下の雰囲気を漂わせ、両側には往時を偲ばせる出格子窓、海鼠壁、袖壁などを残す商家が約1.2km軒を連ねる。中央やや東よりにある城東むかし町家(旧梶村家住宅)は、国の重要伝統建造物群保存地区の中心施設である。その西隣(左手前)に津山洋学資料館がある。

津山洋学資料館では、津山洋学を開花させた美作出身の洋学者を紹介している。

ホールと展示室の平面は五角形を基本として、それを巧みに組み合わせて設計された。五角形の茶色の建物は、「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫津田真道宇田川玄随宇田川榕菴)」をモチーフとしている。館内に入ると、江戸蘭学の夜明けを告げた「解体新書」などの木版刷刊本や医者が用いた医療器具などの資料が展示され、復元された江戸時代の診療室もある。

新館建設に合わせて市内各所に点在していた洋学者のブロンズ像も前庭に集められた。前庭の一番左手前に位置するブロンズ像は、宇田川玄真であり、その右手は、宇田川玄随、右から3人目でこちらを向くのが宇田川榕菴である。宇田川家は代々江戸詰の津山藩医を勤めてきた家系で、宇田川玄随(1756-98)は元々漢方医であったが、杉田玄白前野良沢と交流するうちに蘭学に転向した。日本最初の蘭和辞書である「ハルマ和解(わげ)」を蘭学者の稲村三伯らとともに編纂し、また日本で最初に西洋内科学の書物を翻訳し「西説内科概要」を著した。宇田川玄真(1770-1835)は伊勢出身で、若くして杉田玄白大槻玄沢蘭学を学び、宇田川玄随が亡くなると養子に入りその跡を継いだ。宇田川榕菴(1798-1846)は江戸に生まれ、父の師匠である宇田川玄真に才能を見出されて養子となり、玄真との共著で薬学書を何冊か出版したほか、日本に最初に西洋の植物学を伝え、近代科学を紹介した。また、酸素・水素・窒素・炭素・白金・元素・酸化・還元・分析という化学用語や、細胞・属という生物学用語は宇田川榕菴の造語といわれる。

こちらは左から2番目の宇田川玄随のブロンズ像である。

宇田川家の3人は津山出身ではないが、右奥には右から箕作秋坪箕作阮甫津田真道と津山出身者が並ぶ。箕作阮甫(1799-1863)は、津山藩医の箕作貞固の第三子として現在の津山市西新町に生まれたが、4歳の時に父を失い12歳で兄を亡くして家督を継ぎ、貧しい暮らしの中で藩の永田敬蔵・小島廣厚から儒学を学んだ。京都で3年漢方医学の修行をして津山に戻り藩医に取り立てられた。文政6年(1823)に藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研鑽を積み、医学にとどまらず、語学、西洋史兵学など広範囲の訳述書を残している。嘉永6年(1853)のペリー来航時にはアメリカ大統領の国書の翻訳を務めるなど日本の開国にも尽力した。江戸幕府安政3年(1856)に蕃書調所を設立したが、阮甫はその主任教授に任命された。この蕃書調所は洋書調所、開成所と改称され、後の東京大学の源流の一つとされている。
阮甫の婿養子となった箕作秋坪は、明治元年に私塾・三叉学舎を開いたが、塾生の中には後に首相になる原敬平沼騏一郎、海軍司令官となる東郷平八郎など錚々たるメンバーがいた。
津田真道(1829-1903)は津山藩上之町に生まれ、嘉永3年(1850)に脱藩して江戸に出て、箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を学び、佐久間象山兵学を学んだ。安政4年に蕃書調所に雇用され、文久2年(1862)から4年間オランダに留学し、帰国後に幕府直参に列せられて開成所(蕃書調所を改称)の教授となり、日本で最初に西洋法学を紹介した「泰西国法論」を刊行した。

津山洋学資料館前から西を眺めると、城東の町並みが出雲街道を挟んで厨子(つし)二階建て(中二階)平入りの町家が並ぶ。

右手の西新町には箕作阮甫の旧宅が、損傷激しく老朽化したため、昭和50年から翌年にかけて解体復元され、公開されている。

箕作家で最初に医業を営んだのは阮甫の曽祖父で西新町に住んでいた。阮甫の父と兄の没後、阮甫は戸川町に移り住んだ。旧宅は明治から大正にかけて鍛冶屋や豆腐屋に使用されていたが、最終的には津山市に買収された。間口に対して奥行きが長く、奥には奥座敷がある。

台所の先には庭や離れ家、土蔵、井戸などがあるが、それが当時の町屋の基本的な構造であった。