半坪ビオトープの日記

北方民族資料館


基坂の下で振り返ると、元町公園の上には函館山が見える。かつては行政の拠点として、坂上に役所が置かれていた。そのため住民の間では「お役所坂」「御殿坂」とも呼ばれて親しまれてきた。基坂の名は、里数を測る上で「基点」となる元標が坂下に建てられていたことに由来するという。

市電の通る海峡通りの角には、ペパーミントグリーン色の相馬株式会社の社屋が建っている。大正5年(1916)に建てられたルネッサンス様式の洋館で、マンサード・寄棟・切妻の3つの形式の屋根が複雑に組み合わさっている。主屋正面ファサードは右側に少し突き出る翼屋がある。主屋屋根正面に円形、東西中央部には切妻屋根の神殿風のドーマー窓を配し、外壁の窓は1階が三角ペディメント、2階が櫛形ペディメントの庇が付いた窓と使い分ける。設計・施工は地元の筒井長左衛門。相馬株式会社は初代・相馬鉄平が米穀商「相馬商店」として開業後、海陸物産商や土地投資などに事業転換し、現在は不動産賃貸業を手がけているが、今でも社屋として使用しているため中を見学することはできない。

相馬株式会社の社屋の東向かいに函館市北方民族資料館が建っている。大正15年(1926)に建設された旧日本銀行函館支店の建物を活用し、市立函館博物館旧蔵資料に、馬場脩コレクションおよび児玉作左衛門コレクションを加えた、アイヌ民族を中心とした北方民族資料を展示している。

アイヌといえば北海道アイヌ、千島アイヌ樺太アイヌが知られるが、そのほかの北方民族としては樺太ウィルタ、ニブフ、ロシアのヤクート、コリヤーク、チュクチ、アリューシャン列島のアリュート、アラスカのイヌイトが知られる。このカヤックは、アリューシャン列島のアリュート民族がラッコ猟に使っていた3人乗りの皮舟で、バイダルカという。

ちょうどこの時期に国立民族学博物館で特別展示されていたはずの「夷酋列像」が、ここにも展示されていたので見る機会を得た。この複製は、フランスのブザンソン美術考古博物館所蔵の蠣崎波響の「夷酋列像」である。松前藩の家老・蠣崎波響がアイヌ肖像画を描いたのは、寛政元年(1789)のことで、アイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」が切っ掛けである。当時の和人の非道に耐えかねたアイヌの人々の蜂起が鎮圧された際、停戦の仲介をしたアイヌの酋長の姿を「御味方」として描くよう藩が命じたという。これはションコ(贖穀)というノッカマプ(訥子葛末膚)の首長である。ノッカマプはクナシリの酋長ツキノエがロシア人を案内したところである。クナシリ・メナシの戦いで投降した首謀者38名が銃殺されたのがノッカマプの丘である。
ションコは毛皮に縁取られた赤衣の上に豪奢な長外套をまとっている。

こちらは北海道東部の厚岸の首長・イトコイ(乙箇吐壹)である。妻はエトロフ出身だが、アッケシ(厚岸)はエトロフやクナシリと強固な血縁関係で結ばれていた。最上徳内をエトロフ島に案内したのもイトコイである。清朝官服の蝦夷錦の上にロシアの赤いマントを羽織っており、アイヌの山丹交易の広さが窺える。

アイヌの長など身分の高い人の盛装は、年代が下るにつれ山丹服(蝦夷錦)から本州産の小袖、陣羽織へと変化していった。小袖には霊力があり、小袖を代々受け継ぐと、その霊力も受け継ぐと考えられていた。下の絵のようにカムイモシリ(神の住むところ)では、小袖を着たカムイたちが、漆器を用いて酒宴を開く情景が多く見られるそうだ。

アイヌの色布置文衣(ルウンペ)は手の込んだ美しい衣服である。木綿地の衣服には、絹や更紗、小袖の端切裂、木綿の古裂などの切り伏せや刺繍によって独特の文様があしらわれ、文様の付け方などに地域的特性が見られる。

衣服の文様は美しく着飾るだけでなく、襟首、袖口、裾まわりの空いている部分や死角になっている部分から悪霊が忍び込まないように魔除けとして施された。

アイヌは狩りや漁業、熊送りなど様々な場面で呪術的な儀式や占いを行っていたが、地域によりその方法や道具が違っている。左はアホウドリの頭骨の祈り道具。アホウドリはレブンシラッキカムイ(沖の漁の神)と呼ばれ、メカジキのいる場所を教えてくれるという。アホウドリの頭骨にイナウを付けて漁の無事を祈った。右は狐の頭骨の占い具。決心に迷った時、狐の頭骨=シツンペカムイ(黒狐の神)の下顎を外して落下させて占った。

これは「蝦夷島奇観」(写)に描かれた熊送りの儀式の様子。初春に冬眠中の親グマを獲ったとき、仔熊がいれば生け捕りにして、村で2年ほど飼い育ててからカムイの世界へ送り返す儀式を行う。たくさんの土産物を持たせて、再び人間の世界へ訪れることを期待する儀式である。蝦夷島奇観は、村上島之丞(秦檍丸)が寛政12年(1800)に著した3巻からなる蝦夷風俗絵巻である。