半坪ビオトープの日記

アイヌ民族博物館


園内中央右手にアイヌ民族博物館が建っている。ポロトコタンは、アイヌ文化遺産を保存公開するために1965年、白老市街地にあったアイヌ集落をポロト湖畔に移設・復元した野外博物館として出発したが、かつて北海道や樺太、千島列島、東北地方北部に住んでいたアイヌ民族の文化所産を網羅する博物館として1984年ポロトコタン内にアイヌ民族博物館が開館した。

チセ(家)をかたどった建物の中には、衣食住や生活様式などが分かりやすく展示されている。民族衣装のアットゥシは、オヒョウなどの木の内皮の繊維を織った衣服で、晴れ着の場合にはアイヌ文様がアップリケされていることが多い。

生活用具では、チセの壁際によく見かけるシントコ(行器、ほかい)が目立つ。日本本土との交易で得た漆塗りの行器で、漆器類の中でも最も重要視され、その数が家の格を示すとされた。イオマンテやイチャルパ(先祖供養)、チセイノミ(新築祝い)など重要な儀礼の際はシントコを儀礼時の容器としてトノト(どぶろく)を醸造し、カムイに捧げた後に客人に振る舞った。
その上に掛けられているのは、男性が身につける儀礼具のイコロ(宝刀・飾太刀)で、さらにその上に飾られているのは、儀礼用のイカヨプ(矢筒)であり、彫り文様が装飾されている。

アイヌの女性の身嗜みに欠かせないのがガラス玉であった。アイヌ語で「タマサイ」という首飾りは、正装時に身につけなくてはならず、大小様々なガラス玉が好まれた。ニンカリという耳飾りは主に女性が使ったが、男性も使うことがあったという。

アイヌ最大の儀式といわれるイオマンテは、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界に送り返す祭りを指す。イオマンテ用に設えられたヌササン(幣場)の中心に、イナウで飾り付けた熊の頭骨を祭り、周囲に捧げものとしてのイナウや供物の鮭を捧げる。右手前にある漆器はトゥキ(杯)で、酒椀と天目台からなり、その上にイクスパイ(棒酒箸)を加えた三つ一組で儀式に用いられる。神や先祖にお神酒を捧げる時、イクスパイの箸先を酒杯につけ、祭壇に向けて垂らすと、一滴の酒が神の国では一樽になって届き、神々も人間たちと同じように酒を酌み交わすと考えられていた。

神への祈りに使う木製の祭具としてイナウ(木幣)が知られる。本州以南のいわゆる「削り花」とよく似ている。北海道では一般にミズキやヤナギ、キハダなどを使い、病気祓いや魔除けにはタラノキ、センなどの棘のある木、エンジュやニワトコなどの臭気のある木も使われた。神への捧げ物となったり、神へ伝言を伝える機能を持ったりする。右上の削りかけがパラっとした木幣はキケパラセイナウと呼び、左上の削りかけを撚った木幣はキケチノイェイナウと呼ぶ。左下の小枝を持つ木幣はハシナウと呼ぶ。

山の幸、山の動物を狩りする道具は主に弓矢である。左下の自動発射式の仕掛け弓はアマッポと呼ばれる。これを獣道に仕掛け、矢毒を塗って矢を発射させ、ヒグマやエゾシカを狩った。アマッポとは「置くもの」を意味する。矢毒はもちろんスルク(トリカブト)である。罠と同じように自動発射式なので、山菜採りなどで山中に入り事故に遭うことも多く、解毒法がないので誤射された場合は即座に矢の周辺の肉を抉り取る以外に対処法はなかった。

川の幸、川漁では、サケ、マス、シシャモ、ヤマメ、イワナ、フナなどが網や簗(やな)を使って捕獲されたが、サケやマス、イトウなど大型の魚は、マレク(マレプ)と呼ばれる鉤が用いられた。サケは特に群れをなしていることが多く、一度に大量に獲れる効率的な食料で、ほとんど乾燥・燻製にして保存された。

アイヌの衣服は樹皮衣や草衣が主流で、江戸時代後半になると木綿衣が作られるようになった。左手前の織り方は最も原始的な方法であろう。右手のゴザ織は、ガマやフトイを材料とし、無地と文様入りの2種があった。文様入りのゴザは、イオマンテやチセノミ(新築祝い)などの儀礼に用いられた。チセ(家)は掘立式で、その屋根や壁を葺く材料はカヤやヨシが多く、ササや木の皮も使われた。20〜30年は住むことができたという。

アイヌの子の名前は、生後すぐには付けられず、数年経って個性が現れてから命名された。赤ん坊の間はソン(糞)などと汚い名前で呼び、魔が近づくのを避けたという。
葬式は僧侶など専門職がいないので、すべて普通の男性によって死者の家で執り行われた。山から切り出された墓標の形は地方により異なるが、白老地方では男性用の墓標は槍先、女性用の墓標は縫い針の頭部をかたどったものという。