半坪ビオトープの日記

壇上伽藍、金堂


根本大塔の西に進むと御影堂(みえどう)が建っている。元は空海の持仏堂で、空海没後にその弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため御影堂と呼ばれる。現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で、3間4面の桧皮葺・宝形造。堂内外陣には空海十大弟子像が掲げられている。御影堂の右手前にわずかに見える松の木は、「三鈷の松」と呼ばれる。空海が唐からの帰途、船上から伽藍建設地を探して投げたという三鈷杵がかかっていた松、という伝承のある松である。

御影堂の西には准胝堂と孔雀堂が並んで建っている。右の准胝堂は、光孝天皇の御願を受けて真然が創建したとされる。本尊の准胝観音は、空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられる。その後、天禄4年(973)頃にこの堂が建立され移動したという。現在の建物は明治16年(1883)の再建で、4間4面である。左の孔雀堂は、正治2年(1200)に後鳥羽上皇の御願により京都東寺の延杲(えんごう)祈願所として創建され、当時は孔雀明王院と呼ばれた。本尊の木造孔雀明王像は、快慶作で「正治2年」の銘があり、国の重文に指定され、霊宝館に収蔵されている。現在の建物は昭和58年(1983)に高野山の宮大工辻本善次が再建した。

孔雀堂の左、壇上伽藍の西の端に西塔が建っている。仁和3年(887)に光孝天皇の勅命により、高野山二世真然が空海の遺した『御図記』に従って大塔に続き建立した。現在の5間4面、高さ27.27mの西塔は、天保5年(1834)に再建された擬宝珠高欄付多宝塔である。本尊は金剛界大日如来胎蔵界四仏の5体が安置され、金胎両部不二の深義を表すとされる。特に木造大日如来坐像(国重文)はヒノキの一木造で、弘仁年間(810~24)のものとされ、山内最古のものである。塔の前の石灯籠2基は、華岡青洲天保4年(1833)に寄進したものである。

西塔から南に折れ御社に向かうところに、袴腰付で手の込んだ組物が重厚な建物がある。多分鼓楼と思われるが、詳細はわからなかった。

その先に御社(みやしろ)がある。高野山開創にあたり、空海弘仁10年(819)結界守護のため麓の丹生明神と高野明神を勧請して鎮守としたと伝わるが、実際は10世紀後半に雅真が勧請したとされる。現在の社殿は天正11年(1583)の再建で、極彩色・春日造の2社(丹生明神・高野明神)、三間社流見世棚造の十二王子百二十伴神を合祀した総社からなる。後に行勝上人が気比明神、厳島明神を勧請し四社明神とした。祭神は一の宮が丹生都比売命・気比明神、二の宮が高野明神・厳島明神を祀る。

御社の手前にその拝殿である山王院本殿が建っている。創建は11世紀中頃と見られ、鎮守の神を「山の神」として拝するところからこの名がついたとされる。桁行21.3m、梁間7.8mの両側面向拝付入母屋造で、現在の建物は文禄3年(1594)に再建されたものである。

山王院の左手前に六角経蔵が建っている。平治元年(1159)に鳥羽上皇皇后美福門院得子が上皇の菩提を弔うために創建した。6角6面の堂で、紺紙金泥一切経が安置されていたため、金泥一切経蔵とも六面蔵とも呼ばれる。美福門院が追善菩提の持費として紀州荒川の庄を寄進したため、荒川経蔵ともいう。現在の建物は昭和9年(1934)に再建されたものであり、経蔵の基壇付近に把手があり回すことができる。国重文の紺紙金泥一切経は、霊宝館に収蔵されている。

六角経蔵と根本大塔の間、壇上伽藍の真ん中、中門を入って正面に金堂が建っている。高野山一山の総本堂で、年中行事の大半がここで勤修される。本尊と両部曼荼羅を修法する3壇をもつ密教の大堂である。創建当初は講堂と呼ばれ、嵯峨天皇の御願によって完成したことから御願堂とも呼ばれた。現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932)に完成した。桁行30m、梁間23.8m、高さ23.73mの入母屋造だが、耐震耐火の鉄骨鉄筋コンクリート造である。

内部の壁画は岡倉天心に師事した木村武山の筆により、「釈迦成道驚覚開示の図」や四隅の「八供養菩薩像」が整えられた。本尊の木造薬師如来坐像(阿閦如来秘仏)は、高村光雲の作である。金堂内陣に安置されていた伝平清盛筆絹本著色両界曼荼羅図(血曼荼羅、国重文)や定智筆の絹本著色善女竜王像(国宝)は、御影堂に移されている。

金堂の東に建っている大塔の鐘は、日本で4番目の大きさであったことから「高野四郎」の別称を持ち、東大寺の「奈良次郎」、吉野金峯山寺蔵王堂の「吉野三郎」とともに広く知られている。創建以来3度改鋳され、現在の鐘は天文16年(1547)の鋳造で、直径は2.12mである。毎日5回、時刻を山内に知らせている。