半坪ビオトープの日記

壇上伽藍、根本大塔


金剛峯寺を出て壇上伽藍に向かう。伽藍とは梵語のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行をする閑静清浄な所という意味である。空海高野山の造営にあたり、壇上伽藍からはじめ、密教思想に基づく金堂、大塔、西塔などの建立に務めた。根本道場大伽藍ともいう伽藍の入口から東塔東側付近まで伸びる小道を「蛇腹路」と呼ぶ。高野山は、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院までを「東西に龍が臥せるがごとく」と空海が形容したのだが、この小道が龍の腹付近にあたることからそう呼ばれるようになったという。

蛇腹路を抜けると壇上伽藍の東塔・大会堂・根本大塔が並んで建っているのが見える。二重塔の東塔は、大治2年(1127)に白河法皇の発願によって、醍醐三宝院勝覚権僧正により創建された。

当初は法皇等身の尊勝仏頂尊が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の2体も脇侍として祀られた。天保18年(1843)の大火で焼失した後しばらく再建されず、現在の建物は昭和59年(1984)の再建である。

東塔と大会堂の間に小さな三昧堂が建っている。元は延長7年(929)高野山の座主・済高が「理趣三昧」という儀式のために建てたお堂で、当初は総持院にあったが、仁安年間(1166~69)に壇上に移築された。移築・修造には隣の蓮華乗院(大会堂)の奉行だった西行が関わったと伝えられ、堂の左に見える桜は「西行桜」とよばれている。現在の建物は文化13年(1816)の再建で、3間4面の桧皮葺である。

三昧堂の左にある大会堂の前身は、安元元年(1175)鳥羽法皇の第7皇女である頌子内親王(五辻斎院)が願主となり、鳥羽法皇の菩提を弔うために創建した蓮華乗院である。造営には西行が奉行となり勧進を勤めた。西行は出家前、頌子内親王の祖父・徳大寺実能の家人であり、鳥羽法皇北面の武士だったが、出家後高野山に深く関わったという。元は東別所にあったが治承元年(1177)にここに移築された。その後、高野山から分派して対立していた根来寺新義真言宗・大伝法院方)と和解するための談義の場としても使われた。法会の場所となっているため大会堂と呼ばれる。5間4面の桧皮葺である現在の建物は、嘉永元年(1848)の再建で、阿弥陀如来を本尊として祀っている。

大会堂の左手に愛染堂が建っている。後醍醐天皇は新政を始めたばかりの建武元年(1334)に、「四海静平・玉体安穏」を祈願し、不断愛染護摩供・長日談義を行うために愛染堂を建立した。しかしわずか2年後、南北朝時代という最悪の乱世が始まってしまった。本尊は同天皇等身の愛染明王で、恋愛を司る仏である。現在の建物は嘉永元年(1848)の再建で、3間半4面の桧皮葺である。

大会堂と愛染堂の向かい、参道の南に東を向いて不動堂が建っている。建久8年(1197)鳥羽上皇の皇女・八條女院内親王が発願し、行勝上人が一心院谷に建立し、後に伽藍へ移築された。現在の建物は14世紀前半に再建されたもので、お堂の四隅は全て形が違い、四人の工匠がそれぞれ随意に造ったためと伝えられる。桁行3間・梁間4間の主屋を中心とし、左右に桁行1間・梁間4間と桁行1間・梁間3間の脇の間を付した桧皮葺の建物で、国宝に指定されている。本尊は木造不動明王坐像(国重文)で、伝運慶作の木造八大童子立像(国宝)は霊宝館に収蔵されている。

この大塔が高野山壇上伽藍の中心的堂塔で、空海は法界体性塔とも呼んだが、真言密教のシンボルとして古来より根本大塔と呼ばれる。完成は貞観年間(859~77)末頃とされるが、落雷などで5度も焼失し、現在の大塔は昭和12年(1937)に、創建時の高さ16丈(約48.5m)13間(約23.5m)4面の朱塗りの塔として再建された。下層の屋根は鉢を伏せたような亀腹をつくり、その上に円形の欄を廻らせて庇を設け、屋上には九輪の宝珠が聳えている。

内部は本尊の胎蔵界大日如来を中心に金剛界四仏を安置し、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されている。