半坪ビオトープの日記

壇上伽藍、中門


金堂の正面手前の一段低い所に中門(ちゅうもん)が建っている。創建年代は不明だが、最初の再建は永久3年(1115)年。壇上伽藍はかつて、天保14年(1843)の大火により、西塔のみを残してことごとく焼き尽くされた。昨年、高野山開創1200年記念の一環で、172年ぶりに再建された。東西25m、南北15m、高さ16m、5間3戸の木造二階建て、桧皮葺入母屋造の楼門で、建長5年(1253)建立の鎌倉時代の建築様式に従っている。礎石だけは残っていた。

高さはかつて中門に安置されていた持国天多聞天の立像(高さ約4.3m)が基準とされた。この二天像は天保の焼失の際に救出され、別の場所に置かれていた。こちらが東方を守護する持国天で、武将風に一般的な刀を手に持っている。

こちらが多聞天である。北方を守る神将で、独尊像の場合は毘沙門天とも呼ばれる。甲冑を着け手に宝棒と宝塔を持つことが多い。どちらも再建に際し、解体修理を施された。

今回の再建では、二天に加えて新たに増長天広目天の像を平成の大仏師とされる松本明慶の手により現代風に製作され、四天王像として中門内に安置された。こちらが南方を守る守護神の増長天で、甲冑を着け手に武器を持つ。胸元にはトンボのブローチを付けている。トンボはまっすぐに飛ぶことから「後ろに退かない」という姿勢を表現しているという。

こちらは西方を守る広目天。甲冑を着け手に巻物と筆を持っている。胸元のブローチはセミである。セミが音を遠くへ届ける生き物であることから「威嚇」の姿勢を表現しているという。四天王の持ち物には決まりがあるが、ブローチのような着衣や装飾に決まりはなく、仏師独自の思いが込められているという。

中門から壇上伽藍を出て、大門通りを東に進むと、左手の壇上伽藍に門を閉じた勧学院がある。勧学院は、承元5年(1211)北条政子源頼朝の菩提を弔うために開創した金剛三昧院(当初は禅定院)境内に、鎌倉幕府8代執権・北条時宗が弘安4年(1281)に開創し、高野山内の僧侶の勉学・修練の道場とした。文保2年(1318)に後宇多天皇院宣により現在地に移された。本尊は木造大日如来坐像(国重文)で、平安時代末期のものである。

勧学院の先には増福院・明泉院がある。増福院は、鎮守府将軍多田満仲の末孫多田仲光の三男源賢和尚の開基による。弘法大師を尊信し高野山を師崇していた満仲は、長徳3年(997)病床に臥すや高野山に寺院を建立、一門の「福祐増進を祈るべし」と遺言した。増福院の院号はここに由来する。本尊は愛染明王である。現在は宿坊となっている。

増福院・明泉院の向かい、大門通りの南に高野山霊宝館が建っている。大正10年(1921)に開設された霊宝館は、国宝・重文などの指定文化財約28000点のほか50000点以上の収蔵品を誇る。開館当時に建てられた本館は、日本現存最古の木造博物館建築で、平成10年に登録有形文化財になっている。空海の請来品と伝わる飛行三鈷杵・金銅仏具(ともに金剛峯寺蔵、国重文)や空海筆と伝わる聾瞽指帰(金剛峯寺蔵、国宝)などがある。

館内は撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。これは平安時代作の大日如来坐像(金剛峯寺、国重文)である。伽藍西塔の元本尊で、仁和3年(887)の西塔創建の当初像とされる。

こちらは弘法大師坐像(金剛峯寺)で、室町時代桃山時代の作とされる。

こちらは八大童子立像(金剛峯寺、国宝)で、鎌倉時代の運慶作と伝えられる。左は矜羯羅童子像で、右は制多伽童子像である。

こちらの仏画は、仏涅槃図(金剛峯寺、国宝)である。応徳3年(1086)の墨書銘があり、現存最古の涅槃図とされる。

これは不動明王坐像(奥之院護摩堂旧本尊、金剛峯寺蔵、国重文)で、鎌倉時代の作である。