半坪ビオトープの日記

枚聞神社


薩摩半島の南端に薩摩富士と呼ばれる開聞岳かいもんだけ、924m)が聳え、その北麓に枚聞(ひらきき)神社がある。通称、「おかいもんさん」と呼ばれる。背景の開聞岳を遥拝するように境内入り口は北向きで、両部鳥居の二の鳥居をくぐると朱色の垣に囲まれた境内となる。鳥居の両脇には門神社がある。

右の門神社の脇に御神木とされる大楠が聳えている。樹齢800年、幹回り7.9~9.5m、樹高18~21mである。枚聞神社の境内地は約7000坪で、その森の中には千年近く経た老樹も数多くあるという。

枚聞神社の創始は不詳だが、元々は開聞岳をご神体とする山岳信仰を基にした神社と考えられている。資料の初出は貞観2年(860)の『日本三代実録』で、延長5年(927)の『延喜式神名帳』にも記載され、式内社に列している。古くは開聞岳の南麓に鎮座していたが、貞観16年の開聞岳大噴火の前後に、北麓に遷座したといわれる。古くから薩摩国一宮であり、開聞岳が航海上の目印となることから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
現在の社殿は、慶長15年(1610)に島津義弘が寄進したものを、天明7年(1787)に島津重豪が改築している。中央に大きな唐破風を構え、雲龍などの彫刻が施され、朱漆塗など極彩色に装飾された勅使殿があり、左右に長庁が伸びている。勅使殿は勅使門が変化したものとされ、鹿児島地方独特の建物という。勅使殿の後ろに拝殿があり、その次に弊殿が続き、本殿はその奥にある。本殿は方3間の入母屋造妻入で、屋根は銅板葺、千木・鰹木を置き、正面に縋破風で1間の向拝を付ける。

現在の主祭神は大日孁貴命(オオヒルメムチノミコト)で、ほかに五男三女神(天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐都比売命)が合祀されている。しかし、これらは当初からではなく、いつの頃か書き換えられたものと考えられる。伝承によると、当地は山幸彦が訪れた龍宮とされる。祭神には伝承を含め多くの諸説があり、古くは和多都美神社と呼ばれていたから海神・豊玉彦とする説、先住民の神で航海の神でもあるから猿田彦塩土老翁とする説、天智天皇側室・采女大宮売姫の説などがある。

右手の小さな社は御嶽神社の遥拝所である。開聞岳の山頂に、奥宮と考えられる末社御嶽神社が鎮座している。一の鳥居まで戻ると、神社の背景に開聞岳が見えるのだが、今は木々が鬱蒼と茂ってここから開聞岳は見えない。

境内に入って右手に宝物殿が建っている。枚聞神社には竜宮伝説の玉手箱など多くの宝物が伝えられているため、収蔵庫を昭和30年代に保存公開施設とし、昭和53年(1978)に現在地に建て替えた。

古くから本殿に納められ、「玉手箱」あるいは「あけずの箱」「玉櫛笥(たまくしげ)」等ともよばれ大切に保管されてきたのは、「松梅蒔絵櫛笥」という化粧箱である。付属品も含めて国の重文に指定されている。

付属品には、小箱11ケ、小壺1ケ、櫛3ケ、角笄(つのこうがい)、鬢板(びんいた)、金銀散らし箔紙、服紗巻筆、鏡等、合計23個の化粧道具が含まれる。化粧箱の目録に大永3年(1523)と表記されていて、室町時代の作とわかる。

こちらは神社への奉納、寄進等の古文書類である。

その他、島津義弘寄進と伝えられる鎧をはじめ、古鏡、二十四面の神楽面、神舞装束、桃山屏風絵など多数の宝物が展示されている。

古文書によると、枚聞神社にはかつて数十種の神舞があったそうだ。現在は、剣の舞、南方の舞、中央の舞、鈿(うずめ)の舞の4つが伝承されている。

神舞は、毎年10月の例大祭の前夜祭で、巫女による浦安の舞とあわせて、厳かに幽玄に舞われているという。