半坪ビオトープの日記

比奈麻治比売命神社

由良の浜
西ノ島の西から東へ一気に移動するが、途中でまた由良比女神社のある由良の浜を通った。満開の桜が華やかだ。

比奈麻治比売命神社

フェリーの発着する別府港を過ぎると、小さな集落がいくつかあるだけで、最後の集落・宇賀に着く前の草木の生い茂る林の中に、比奈麻治比売命神社という寂れた神社がある。

比奈麻治比売命神社

創祀年代は不明だが、黒木村史によると「比奈麻治比売命神社が初めて六国史に見えるのは、延暦18年(799)である。遣渤海使内蔵宿禰賀茂麻呂が任を終え帰国せんとして、海中夜暗く、その進路に迷った時、遠くに光有りて無事島浜に至ったという霊験高い神であり、その上奏によって幣例に預かることを許された」という。隠岐国初の官社になり、その後も官位を授かっている。続日本後記には「承和5年(838)隠岐国無位比奈麻治比売神従五位下」とあり、延喜式の比奈麻治比売命神社に比定される式内社で、隠岐国神名帳には従一位とある。神名帳考証には「火焼権現ともいう」とある。すると、焼火神社も焼火権現を名乗っていた時期があるので、もしかしたら、こちらが元祖かもしれない。

比奈麻治比売命神社の拝殿
鳥居の額には「濟神社」とある。濟(すん、寸とも)とは、元社地の名前。ここから山中を北に4km進んだ、西ノ島最北端にあり、神社跡の石碑などはあるが、一軒の民家もなく、開拓された跡もない入江の上に旧社殿が残るという。「済」という地に鎮座していたことから「済の宮」とか「済大明神」とも呼ばれていた。参拝に不便なため安政2年(1855)にこの尾和の地に移され、ご神託により25年後の明治13年に元の済に戻し、昭和3年(1928)に再度現社地に移した。現在、済の宮跡では玉垣に囲まれた本殿跡の下に磐座が見えるという。

比奈麻治比売命神社拝殿内
承和5年(838)に従五位下貞観13年(871)には正五位下、元慶2年(878)には正五位上へと叙され、霊験の著しい神社として知られた。また、慶長18年(1613)の検地帳の御供田の記録や、元禄12年(1699)の佐渡の守の名のある御幣串が残されていること、出雲大社の十九社、福岡市博多区櫛田神社境内社である二十二社でも祀られるなど、近世においても比奈麻治比売命を祀る神社や関連伝承が多く見られるという。

比奈麻治比売命神社本殿

対岸の海士町にある宇受賀命神社の宇受賀命と比奈麻治比売命との間に、興味深い伝承がある。宇受賀命が比奈麻治比売命の美しさに惚れて、西ノ島町美田の大山神社の祭神と姫の争奪戦を繰り広げた。宇受賀命が勝利し、比奈麻治比売命と結ばれ、柳井姫をもうけた。柳井姫は海士町豊田の奈伎良比売神社の祭神となったという。本殿は生い茂る草木に隠れてよく見えないのが残念である。

龍王
社殿脇には自然石で白龍王神が祀られていた。

社殿裏手の境内社
社殿裏手には境内社が二社祀られていた。詳細は不明であるが、当社には星神島の神、御崎社、北野社が合祀されているというので、関連があるかもしれない。ちなみに星神島は、元社地の済の北約1.2kにある無人島で、オオミズナギドリの繁殖地として知られる。帆船時代には北前船が航海安全を祈願する島だったといわれ、また雨乞いの神としても信仰されていたという。

ムラサキケマン
こちらの紫色の花は、ムラサキケマンCorydalis incisa)という越年草。日本全国及び中国に分布し、木陰などやや湿ったところに生える。葉は2〜3回羽状に細かく裂け、裂片はさらに深く切れ込む。花は筒状で先は唇形となり、総状につく。全草にプロトピンを含み有毒。ウスバシロチョウの食草であるため、ウスバシロチョウも有毒となる。

ヤマハコベ
こちらの小さな白い花は、ミヤマハコベ(Stellaria sessiliflora)という多年草。日本各地の林中や山地の木陰などに生える。葉は対生し、卵円形か卵形。花弁は5個で萼片より長く、2深裂して10枚に見える。