半坪ビオトープの日記

太平寺、四万十川


土佐一条氏が繁栄を謳歌した土佐の小京都中村は、今でも四万十市の中心である。中村駅の北西約500m辺りに、臨済宗妙心寺派の神護山福寿院太平寺がある。

石段を上って石垣に囲まれた境内の入り口に建つ古めかしい山門は、江戸時代初期の建立である。

山門をくぐると境内は意外と狭く、ひっそりとした境内の右側に鐘楼がある。

十三層塔の先に本堂が構えている。太平寺は、南北朝時代の文和年間(1352~56)寺の境内にあった桂珠庵の庵主海峯性公尼が、四国巡礼の僧泉巌覚雲の助力を得て井戸を掘り、堂を建てて地蔵を安置し、伊予の照源寺の大仙を迎えて開山したという。寺には寺宝として、室町時代作の木造海峯性公尼坐像・木造泉巌覚雲坐像が安置されているが、非公開である。両像とも室町時代の肖像彫刻の傑作とされ、国の重文に指定されている。天文年間(1532~55)に太平寺を修復した土佐一条氏3代房基は、非常時の避難所として重視し、中村御所南方の防衛拠点とするため、土塀に三角形の矢狭間を設けた。明治時代初期の廃仏毀釈により廃寺になったが、明治12年(1879)に貫仲玄徹により復興された。本尊は延命地蔵菩薩である。また、寛永13年(1636)に仙台藩伊達政宗・忠宗の懇請により、松島瑞巌寺を再興したことで著名な、禅僧雲居希応が修行した寺としても有名である。

境内には苔むした自由の碑がある。帝国議会開設当初の明治23年(1890)民権派と国権派の対立が根深かった土佐において、演説会での抗争がもとで国権派に殺害された民権派の青年杉内清太郎を弔うために建立された碑である。宿毛市出身の自由党竹内綱の撰文、大江卓の書で、碑文の最後に「生きて自由を愛し死しては自由となる人は自由を貴び碑は自由を表す」とある。
ちなみに明治時代の社会主義者幸徳秋水は旧中村町で生まれ(1871~1911)、大逆事件で処刑されたが、秋水の墓が太平寺の北西約1kmにある。

四万十市は「日本最後の清流」として有名な四万十川が、太平洋に注ぎ込む下流及び河口に位置する。中村の町から足摺岬へ向かう道も四万十川沿いに10kmほど走るので、左に四万十川が見え隠れする。

四万十川は河口付近では渡川と呼ばれていたため、河川法上では当初から渡川とされていて、四万十川と改名されたのは平成6年であった。

本流に大規模なダムがないことから「日本最後の清流」と呼ばれ、柿田川長良川とともに「日本三大清流の一つ」とも呼ばれ、日本の秘境100選にも選ばれているが、全国的には水質が際立って良いわけではなく、高知県内でも仁淀川の方に水質的には軍配があがる。とはいえ、ゆったりとした流れはのどかな景観を醸し出している。

四万十川には、欄干がなく台風や大雨寺には水に潜る沈下橋が多数架かる。本流に22本、支流を含めると47本で、日本中の沈下橋総数約400本の1割以上を占める。