半坪ビオトープの日記

岩殿山城跡


ふれあいの館が建っているのは丸山山頂で、標高が444.4mある。そこから南を眺めると菊花山があり、その右裾の彼方に富士山が見える。富士山の右には高川山が同じ高さに見え、その右に大久保山、さらに右手に三ツ峠山と続く。

ふれあいの館脇から階段状の登山道を登っていくと、道端にマメ科コマツナギ(Indigofera bungeana)の花が咲いていた。本州〜九州の草地や川の土手、道端などのやや乾いたところに生える落葉小低木で、高さは40~80cmになる。葉腋に総状花序を出し、淡紅紫色の花をやや密につける。花期は7〜9月。

なおも進むと、途中の木々の隙間から鏡岩の絶壁が見える。すべすべしているので岩登りにも向かないだろう。右手に見える赤い花は、中国南部原産のサルスベリ(Lagerstroemia indica)である。

つづら折りに登っていくと徐々に険しくなって分岐点となる。左にカブト岩、稚児落しへの道を分けた後に、巨大な自然石で作られた城門である揚城戸跡に出る。第二の関門と呼ばれていた。

まもなく番所跡に出る。雨露を避けるための建物で、番兵の詰め所であった。

番所跡で折り返すとすぐに馬屋跡となり、先は開けて三の丸頂上広場が見えてくる。

頂上広場には岩殿山634mの標識が立っているが、厳密にいうとここは鏡岩の絶壁の上にある三の丸跡の頂で、岩殿山の山頂である本丸跡はもう少し先にある。標識の後ろの大きな石碑は、乃木大将の七言絶句の漢詩碑である。明治12年(1879)まだ中佐だった乃木希典は、駒橋に兵1500とともに宿泊し、岩殿山に従兵2人と攻防戦研究のために登った。鏡岩を仰いで「岩殿城の岩壁は兎も登れない」と感嘆したという。
戦国時代に小山田氏の居城とされた岩殿城だが、小山田氏は初め武田氏に対抗していた。永正6年(1509)武田氏の傘下に入った後は、軍事的に武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、国境警備の役割を果たした。天正10年(1582)に織田軍が甲斐に侵攻した時に小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を郡内に入れず、進退に窮した勝頼は天目山で自害した。武田家を滅亡させることに深く関わった小山田信茂はこの戦いの後、主従は一緒に死ぬべきだと織田信長により処刑された。
乃木希典の七言絶句は、「欲問当年遺恨長 英雄前後幾興亡 巉巌千尺荒墟上 仗剣帳然見夕陽」とある。
後年希典は明治天皇崩御とともに自決しているが、主従は一緒に死ぬべきだという織田の言葉を実践したといえる。

三の丸跡の展望台からは富士山がよく見える。富士山(3776m)の右手には高川山(976m)、その右に大久保山(1546m)、さらに右に三ツ峠山(1785m)と続く。富士山の左には杓子山(1598m)から御正体山(1682m)への山並みが続く。

御正体山のずっと手前に、大月市街地に迫る菊花山(643.7m)があり、その後ろに頭を出しているのが九鬼山(970m)である。その間の山並みは、九鬼山の左に馬岳(797m)から御前山(730m)と続く。

二の丸から東を眺めるとパラボラアンテナの建つ本丸山頂の右手に一つ山が見える。百蔵山(1003m)か扇山(1138m)と思われるが、残念ながらここからでは判別できない。