半坪ビオトープの日記

骨寺村荘園遺跡


達谷窟毘沙門堂から南に向かうとすぐに厳美渓があるが、その直前で10分ほど西に進むと骨寺村荘園遺跡がある。ここは栗駒山から東流する磐井川左岸に形成された段丘平野で、周囲は標高300m前後の低い山々に囲まれている。ここ一関市厳美町本寺地区は、その昔「骨寺村」と呼ばれた荘園で、中尊寺の経蔵別当の所領であった。まず骨寺村のほぼ中心にある骨寺村荘園交流館を訪れ、併設の若神子亭で一関の郷土料理「はっと」を食べ、遺跡の概要を確認する。

平安浄土の国づくりを理想に掲げた藤原清衡は、自らの発願による「紺紙金銀字交書一切経」(国宝)の完成に功のあった自在坊蓮光を、その経を納める中尊寺経蔵の初代別当に任命した。蓮光は私領であった骨寺村を経蔵に寄進し、経蔵維持費用捻出の荘園としてあらためて清衡から認めてもらった。経蔵別当領は、藤原氏滅亡後もこの地方の地頭となった葛西氏などと相論を繰り返しながら鎌倉時代を経て室町時代まで伝領され、2枚の「陸奥国骨寺村絵図」がその過程で作成された。右の仏神絵図(簡略絵図)は鎌倉時代、左の在家絵図は鎌倉ないし南北朝時代に描かれたとされ、中尊寺経蔵別当職を継承した大長寿院に伝来したもので、国の重文に指定されている。
2枚の絵図とも栗駒山を正面に、骨寺村の四方の境、すなわち東は鎰懸(かぎかけ)、西は山王窟、南は岩井河(磐井川)、北は峯山堂(みたけどう)から馬坂に囲まれた領域を描いている。鎌倉時代の「吾妻鏡」にも村の四方の境が示されていて、村の範囲がわかる。

江戸時代になると本寺地区は仙台藩の直轄領となり、明治維新まで経営される。骨寺が本寺に転訛したのはこの時期といわれている。中心部に近い本寺川に架かる要害橋からは、360度周囲の景観を眺望することができ、曲線のあぜ道や水田、土水路などを見ることができる。下流の東を眺めると、緑なす田の中にこんもりとした若神子社の杜が見える。この辺りの水田の光景は、本当に心休まる風情がある。

若神子社は、かつては口寄せをする巫女(みこ)の守護神を祀るところといわれている。現在、社殿はないが石祠が祀られているという。

要害橋から上流の西を眺めると、晴れていれば遠くに栗駒山(1626m)が見えるはずである。絵図等により現地比定される場所及び発掘で確認された9ヶ所が、平成17年に「骨寺村荘園遺跡」として国史跡に指定されている。翌年には、絵図に描かれた水田と屋敷を中心とする領域が国の重要文化的景観に選定されている。

骨寺村絵図には、「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、建物の礎石のような図像が描かれている。かつてここに骨寺という寺があって、絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことがわかる。今はその跡も確認できないが、その寺の名前が村の由来になったという。骨寺とは珍しい名前だが、亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があり、この骨寺はそのための場だったのではと考えられている。
鎌倉時代の「撰集抄」という説話集に、平泉郡にいた一人の娘が、天井裏の髑髏(どくろ)から法華経の読み方を習い、その髑髏を逆柴山に葬ったという話しがある。その髑髏は、比叡山の高僧第18代座主の慈恵大師良源の髑髏で、葬った場所が慈恵塚だと本寺では伝えられている。この髑髏伝説が、骨寺村という名前の由来であるとも考えられている。

水田地帯の上流、西の外れに駒形根神社が建っている。「駒形山」と記された扁額のある石造鳥居の両側には、石碑がたくさん並べられている。

駒形根神社は、山体が岩手県宮城県山形県にまたがる、「駒形」「駒形根」とも呼ばれる栗駒山須川岳)を祀っている。

駒形根神社は、骨寺村絵図にある「六所宮」「馬頭観音」と考えられている。拝殿の裏に少し離れて小振りの本殿が建っている。

駒形根神社は丘陵の端にあるので、石段を上った鐘楼のところから眼下に広がる骨寺村荘園遺跡を眺め渡すことができる。鐘楼は神仏習合の名残であろう。

拝殿の右手には神馬舎が建っていて、中には黒っぽい神馬像が安置されている。

駒形根神社から南に向かうと、磐井川の手前に骨寺村荘園休憩所「古曲田家(こまがたや)」が建っている。元々は昭和20年代に建てられた民家で、内部の座敷や板の間、雪見障子などを見ながら、DVDや紙芝居も楽しむことができる。