半坪ビオトープの日記

不動堂、西光寺金堂


達谷窟毘沙門堂の西に約10丈(約33m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた磨崖仏は、前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するために、陸奥源義家が馬上より弓はずを以て彫りつけたと伝えられている。この磨崖仏は、高さ約16.5m、顔の長さ約3.6m、肩幅約9.9mと全国で5指に入る大像で、「北限の磨崖仏」として名高い。元禄9年(1696)の記録に「大日之尊體」(岩大日)、その後、岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている。

なお、尊名は岩大日の記録から大日如来とする考えもあるが、西光寺では昔から阿弥陀仏名号を唱えていて、戦死者追善の伝説からも阿弥陀如来とするのが正しいと考えている。その証左として、岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317)には、阿弥陀の種子である「キリク」が刻まれている。明治29年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでいる。

三の鳥居の右脇に大きな杉が立っている。達谷窟毘沙門堂の祭事を司る僧を別当奉行という。奉行の指図により各坊の僧がこの杉の元に参集したので、奉行坊杉と呼ばれる。「安永風土記」にも大杉と記される。

達谷窟毘沙門堂を後にして、奉行坊杉から一の鳥居に戻らずに左の坂道を上ると、左手奥に鐘楼が建っている。窟毘沙門堂、鹿島社とともに慶長20年(1615)の建立と伝える。江戸時代には伊達藩が毘沙門堂と同時に屋根の葺き替えを行っていたことが記録に残る。昭和58年に150貫(約563kg)の洪鐘を新鋳し、屋根を銅板に葺き替えた。

鐘楼を左奥に見て進むと不動堂に着く。達谷窟に塞を構え良民を苦しめていた悪路王達は、京からさらって来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉じ込め、逃げようとする娘たちを待ち伏せした滝を人々は「姫待滝」と呼んだ。姫待不動尊は、智証大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待滝の本尊として祀ったものを藤原基衡が再建した。年月を経て堂宇の腐朽が著しいため、寛政元年(1789)当地に移された。

暗くてよく見えないのが残念だが、桂材の一木彫りで、全国的にもまれな大師様不動の大像である。平安時代の作で、岩手県有形文化財に指定されている。

さらに少し先に、達谷西光寺の金堂が建っている。古くは講堂とも呼ばれ、延暦21年(802)に達谷川対岸の谷地田に建てられたが、延徳2年(1490)の大火で焼失した。江戸時代には現在地に建てられた客殿が金堂の役割を果たしていたが、明治初年に廃仏毀釈で破棄された。平成7年に昔ながらの工法で再建された。桁行5間梁間6間の大堂である。

本尊は、毘沙門堂の後ろに聳える真鏡山上の神木の松で刻まれた、4尺(約120cm)の薬師如来である。

達谷窟毘沙門堂の境内にはいろいろな花が咲いている。オレンジ色の花を咲かせているのは、ナデシコ科センノウ属のフシグロセンノウ(Lychnis miqueliana)である。日本固有種で、本州・四国・九州の山地の林下などに自生する。花期は7〜10月。花弁は5個で、長さ2.5〜3cmになる 。初秋の野山ではオレンジ色の花が珍しく、ひと際目立つ野草としてなじみ深かったが、近頃は低山ハイクがかなり減ったため、見かける機会がめっきり少なくなってしまった。

こちらのピンク色の花は、ヒガンバナ属のナツズイセン(Lycoris squamigera)である。日本では北海道を除く全国の主に里山付近に生育するので、古くに中国から渡来したと考えられている。8月中旬から下旬に、60cmほどの花茎を伸ばし、ラッパ状の花を数輪つける。6枚の花被片は反り返る。開花時に葉がないので、ハダカユリの別名がある。ヒガンバナと同じく有毒植物である。