半坪ビオトープの日記

円福寺


皆野駅から荒川に向う坂の左手に、平量山円福寺がある。駐車場の脇に、比較的新しそうな山門と本堂が見える。

通称、大浜の円福寺といわれ、秩父最古の仏跡として真言密教の道場とされる。山門をくぐると整備された参道の左側に六地蔵が、正面に本堂が構えている。

「新編武蔵風土記稿」では平将門の創建と伝えられるが、「円福寺旧来記」では平将門弟将平を開基とし、平(畠山)重忠父重能を中興開基とする寺で、真言宗智山派に属している。本堂右手前には弘法大師像と思われる銅像が立っている。

円福寺は、秩父七福神巡りの一つとされ、大黒天を祀っている。

円福寺の本尊は、阿弥陀如来で、左脇侍に観音菩薩、右脇侍に勢至菩薩を安置している。観音菩薩は十一面観音で、像高66cm、台座18.5cmである。如来の台座には、天明元年(1782)の紀年銘があり、勢至菩薩も同時代の作とされる。しかし、十一面観音は形も時代も全く異なり、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した仏師の一系統である院派の仏師の作と考えられている。

福寿大黒天は、古来より仏法の守護神であり、福寿開運の神とされ、大国主命として国土開拓、子孫愛育の神と尊崇されてきた。ちなみに秩父七福神は、秩父34ヶ所観音霊場とは異なる古刹寺院より構成されている。

墓地には、平の将平と平重能(しげよし)の墓と伝えられる、2基のくずれかけた五輪塔がある。

天慶3年(940)戦いに敗れた平将門は、城峰山に立てこもったがそこで下野国押領使藤原秀郷に打たれたという伝説があり、将門の墓という説もある。しかし「円福寺旧来記」では、城峯山に立てこもったのは将平であり、源経基のために討死を遂げたのを寺僧が葬ったとされる。

秩父庄司重能は、下吉田の秩父氏館で生まれ、代々秩父牧の別当を務め秩父氏を称していたが、旧川本町(現深谷市)畠山に移ると畠山氏を名乗った。初めは源義朝に従ったが、後に平氏に仕え、源平の争乱では源氏方についた。そのため畠山重能とも平重能とも呼ばれる。
どちらの墓も平安時代末期の石造物に多い凝灰岩を使用している。
これで、1月下旬の秩父地方の史跡巡りを終える。