半坪ビオトープの日記

椋神社、八幡宮


椋神社社殿の右手に、八幡神社旧本殿が、覆屋に保護されて安置されている。畠山重忠が治承4年(1180)に鶴窪八幡宮を祀ったのが始まりとされ、日を経て吉田宿の町内衆により神事祭礼が継承された。

延宝年間(1673-80)に造営されたとみられる拝殿・本殿は、大正初年まで現在の吉田小学校校庭にあったが、大正7年に椋神社に合祀し、本殿は椋神社境内に移築された。拝殿は、椋神社拝殿として使われている。欅造り・銅瓦葺の美しい社殿は、壮麗な彫刻で飾り立てられている。

後ろから見ても随所に彩色された彫刻がみられる。

広い境内の外れ、社殿を前にすると右後方に、秩父事件百年の碑とブロンズ像が建っている。
秩父事件とは、明治17年(1884)11月、悪徳の金貸しや政府の失政を批判し、貧民の救済を訴えて起こした、日本近代史上最大最後の農民蜂起で、秩父困民党軍は西南戦争で西郷軍が押し立てた「新政厚徳」の旗を掲げて行進したという。
維新前後に秩父郡一帯には生糸景気が訪れていたが、生糸価格の暴落により明治15 年頃から深刻な不況に直面し、多くの農家が高利の借金の返済不能に陥り、破産に瀕した。落合寅市、高岸善吉、坂本宗作らが16年末から秩父郡役所に対して高利貸説諭請願運動を行うが却下された。17年2月から自由党入党者が相次ぎ、貧民を救うための要求四項目を請願するなど、困民党の組織化も図られ高利貸との交渉も行うが要求は拒否された。

宮郷の田代栄助を総理に仰ぎ、加藤織平が副総理、井上伝蔵が会計長、飯塚森蔵が大隊長など、ここ吉田出身者を幹部にして、秩父困民党三千余名の農民等は、11月1日にここ椋神社境内に集結して五ヶ条の軍律を定め、武装蜂起した。翌日大宮郷に入って郡役所を占拠するも、4日以降鎮台兵と交戦して敗れ、本隊は解散した。だが一隊は十石峠を越えて信州に進軍するが、9日の戦闘で敗れ潰走した。

境内には他にもいくつか石碑が建っているが、どれも詳細は分からない。

これも記念碑と読めるが、それ以上は読み取れない。

これは境内入口付近にあったので、椋神社にかなり関連のあるものだと思われるが、残念ながら読み取れない。