半坪ビオトープの日記

十王堂、前田慶次供養塔


平成10年に十王像、地蔵菩薩、奪衣婆像を復元修理し、仁王門から阿弥陀堂へ通じる参道に十王堂を建立した。十王とは、人が死後、亡者となって冥界に行き取り調べを受けるときの裁判官である十人の王のことである。

亡者は、初七日は「泰広王」二・七日は「初江王」三・七日は「宋帝王」四・七日は「五官王」五・七日は「閻魔王」六・七日は「変成王」七・七日は「泰山王」百ヶ日は「平等王」一周忌は「都市王」三回忌は「五道転輪王」と十回それぞれの王の前で取り調べを受ける。
泰広王の裁きの後、罪深い者は深い淵を、罪のない者は地蔵に手を引かれて橋の上を、それ以外の者は急流の沢を渡る。それが三途の川(葬頭河)という。三途の川を渡った亡者の衣を剥ぐのが奪衣婆である。一番右に座っている。

赤い顔をした閻魔大王が、以前の四王の取り調べとあわせて、亡者が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のどこに生まれ変わるかを決定する。

悪趣(地獄、餓鬼、畜生、修羅)に定められても、百ヶ日、一周忌、三回忌と供養を重ねれば、誰でも天上界(極楽)へ行くことができる。

参道を進むと子育て地蔵堂が建っている。近在の人々から信仰を集める地蔵菩薩像が安置されている。

阿弥陀堂の右奥に、前田慶次供養塔が建っている。前田慶次は慶長17年(1612)に死去し、埋葬されたのが堂森善光寺と北寺町の一花院(廃寺)とされるが、諸説あり定かではない。最も有力な候補地とされる堂森善光寺では、昭和55年に慶次の御霊を祀るための供養塔を建立した。

碑文にはおおよそ次のように記されている。前田慶次利貞は、加賀藩前田利家の甥で、叔父利家に仕えて小田原攻めに参戦、後己を知る天下唯一の武将として直江兼続を知り、その主上杉景勝に生涯を託した。慶長5年の最上討伐には直江と共に出陣、大いに戦い殿軍(しんがりぐん)を務め完全撤退を果たして戦史に名を留めた。その後、堂森に居を賜り、邸を「無苦庵」と呼び、悠々自適この地を愛し郷民と親しみ、慶長17 年に70歳の生涯を閉じた。慶次は天性豪放磊落奇行に富み、文武もちろん広く諸芸道に通じ、無苦庵記・道中日記・亀岡文殊奉献和歌が残されている。

前田利太(としたか)は、利家の兄利久の養子で、通称を慶次あるいは慶次郎といい、忽々斎(こつこつさい)、瓢戸斎(ひょっとさい)などと号した。利益(とします)とも表記されるが、自筆では啓二郎、慶次、利貞のみとされる。
没年も米沢郷土史料では慶長17年(1612)だが、加賀藩史料では慶長10年(1605)となっている。

境内の入口近くには、鐘楼堂が建っている。天保9年(1838)に鋳造された二代目の鐘があったが、戦時中の金属供出により永年その音色が途絶えていた。ようやく昭和53年に再建されたという。

阿弥陀堂の右手に霊牌堂が建っている。平成2年に完成し、一階は大日如来不動明王・宗祖弘法大師を安置し、椅子席の本堂として葬儀・法事等を執り行っている。二階には位牌堂がある。

礼拝堂の右手に本堂が建っている。以前の本堂は明治26年に焼失したので、明治28年(1895)に再建された。不動明王を中心とする五大力尊を奉安する護摩祈祷道場である。