半坪ビオトープの日記

堂森善光寺


米沢市万世町堂森にある松心山光照院善光寺は、真言宗豊山派の寺院で出羽善光寺とも呼ばれている。元禄8年(1695)に描かれた古図、米陽八景の一部・堂森秋月の図(市立米沢図書館蔵)の中に、当時の仁王門が見られる。しかし宝暦13年(1763)の火災で焼失し、明和2年(1765)に再建され、昭和50年に建て替えされ現在に至っている。

金剛力士像は明和2年の作で、屋根裏には宝暦以前の焼けた大きな像が収められている。

堂森善光寺は、梵鐘の刻によれば、大同2年(807)に善光寺阿弥陀堂別当として開山されたとあるが、宝暦13年(1763)と明治26年(1893)の二度の火災で全ての記録を失い、寺歴の詳細は分からない。
阿弥陀堂は、間口6間、奥行7間半の御堂である。創建当時の御堂を建久年間(1190~98)に益王姫によって中興・改築され、現在の伽藍は寛延3年(1750)に再興されたものである。以前は茅葺だったが昭和にトタン葺きに、平成11年に銅板に葺き替えられた。

鎌倉時代には地域住民の信仰を集め、室町・江戸時代の領主をはじめ領民の阿弥陀信仰の拠点として栄えた。
向拝虹梁にある彫刻は、初めて見る満開の梅の木で、たいへん珍しい意匠と思われる。

阿弥陀堂には、善光寺如来阿弥陀三尊像)とその左に「見返り阿弥陀像」が安置されている。この横向きの見返り阿弥陀像は全国的にも珍しく、高さは50.8cm、檜材の寄木造りで、黒漆を塗った上に金箔を押している。この像には次のような伝説が残されている。「長田庄司忠次が源頼朝との一戦に敗れ、妹の益王姫が家に伝わる阿弥陀像を背負って逃れた。出羽国にたどり着いたが追っ手に発見されてしまう。すると背中の阿弥陀如来が突然振り返り追っ手を睨んで倒した。助かった益王姫は堂森に庵をつくり、振り返った姿の阿弥陀像を祀った」

寺宝の本尊は、長野善光寺の本尊を模した善光寺三尊像(阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩)で、室町時代の作である。中尊は41.5cm、脇仏は31.5cmであり、銅製であるが中身が空洞ではなく、重さは中尊で36kg、脇仏では18kg もある。

見返り阿弥陀像の左に座像があり、寺にゆかりのある僧と思われるがよくわからない。手前には撫で五鈷があり、撫でながら仏像を拝むのだと思われる。

善光寺三像の右側にも座像があるが、こちらの僧もよくわからない。手前に座っている二つの像が、この寺を再建したとも伝えられる、長井時広夫妻の木造座像である。一木彫で彩色があり、時広像は烏帽子姿で両手定印、夫人像は垂髪で打ち掛け姿の右手合掌、左手定印の姿である。室町時代の作と推定されている。長井時広は鎌倉幕府重臣大江広元の二男で、置賜郡長井氏の始祖となり、兄親広は寒河江庄を領した。ともに鎌倉三代将軍実朝の頃の人で、「吾妻鏡」に登場する。