半坪ビオトープの日記

旭川市博物館


北海道最後の日は、旭川の街中を観て回った。旭川市博物館は、旭川市音楽堂、国際会議場とともに大雪クリスタルホールの中に併設されている。

常設展示室の上層階には、先住民のアイヌの人々やそれ以前の古代の人々、または明治以降屯田兵として入植してきた和人達など各時代の住居を復元移築している。併せて当時の生活用品などを展示し、人々の暮らしぶりを伝えている。
下層階では、北国の自然と人間の関わりをテーマに多数の資料を展示している。
アイヌは固有の言語や宗教を持ち、北海道・サハリン南部・千島列島などに先住してきた人々で、この上川盆地にもペニウンクル(川上の人々)と呼ばれるアイヌが暮らしていた。農耕に従事し、鍛冶によって道具を造り、外洋を往復して広く交易を行い、時には他の人々と争うこともあった。

チセというアイヌ掘立柱住居の奥が主人夫婦の席で、後ろには交易で集められた漆器の宝器や祭器が並べられている。首長夫妻のチセには、これらの「うしろだて」となる宝器や祭器がもっとたくさん積み並べられるという。宝器や祭器にある精霊が背後から見守ってくれるという考えは、セレマク(陰)の思想と呼ばれる。

10世紀以降、北海道アイヌは、サハリンから南下して北海道の北半分を占めていたオホーツク人を排除・同化しながら全道に進出する。さらに11世紀前半にはサハリン南部、13世紀以降は千島へも進出し、15世紀にはカムチャッカ半島まで活動圏を拡大していた。モンゴル帝国(元)は13世紀半ばにはアムール川河口部に東征元帥府を設置していたが、アイヌはサハリンに侵入するだけでなく大陸に渡って村々を襲い、略奪を行って元軍の手を焼かせていた。元軍は時に兵1万人・舟1千艘を派遣してアイヌを攻撃・排除した。1308年にアイヌは毎年毛皮を貢納することを約束し、元に降伏したと、中国の資料「元史」に記録されている。
明王朝は、元が東征元帥府を置いた場所に、奴児干都司(ぬるがんとし)という役所を置いたが、その経緯を記して建立された「勅修奴児干永寧寺記」(1413年)には、アイヌが貢ぎ物を携えやってきたと記されている。

アイヌの古い時代には、樹皮衣・魚皮衣・獣皮衣があったが、木綿が入るようになってからは華やかなルウンペ(木綿衣)がつくられるようになった。右は北海道アイヌのアットゥシ(厚司)という樹皮衣、左はサハリンアイヌのアハルンという樹皮衣である。

女性は儀式の時には鉢巻きを締め、首飾りや耳飾りをつけて正装する。タマサイという首飾りは、中国大陸や和人社会から入手したガラス玉で作られている。黒と青の玉が好まれたという。上の丸い耳飾りは、ニンカリという金属製の環状ピアスで、男性もつけていた。

アイヌは神や先祖にお神酒を捧げる時、イクパスイ(イク[酒を飲む]・パスイ[箸])という独特の儀礼具を使う。通常上面には草花文や縄目の結束文などの抽象的な文様の彫刻が施されている。漆が塗られたものもある。

左下に見える御幣に似た木を削ったイナウは、アイヌの祭具の一つで、カムイや先祖と人間の間を取り持つ神への供物である。
右下の熊の彫物の左にある楽器は、カラフトアイヌが用いていた五弦琴でトンコリという。近年、数少ない伝承者による演奏活動が各地で行われている。
上川アイヌの村は、石狩川忠別川の氾濫原から一段上がった河岸段丘に集中しているが、多かったサケや、シカ、オオウバユリの鱗茎などを食料源としていた。

ところが、より古い縄文時代の遺跡は河岸段丘にはほとんどなく、湧き水のある場所で、早期・前期・中期・後期と盆地一面に広がっている。つまり、縄文時代にはサケの産卵場に遺跡がなくサケに執着していなかった。擦文時代からアイヌの時代には、サケの産卵場と丸木舟の運航に適した場所が集落立地の場所として選ばれている。その転換の理由は、擦文時代の中頃の10世紀頃から本土との交易が活発になり、毛皮とともにサケも交易品として必要になったのではと考えられている。

オオウバユリの鱗茎は、アイヌではトゥレップの名で食用にされ、穀物以上に重要とされた。
その下にあるペラアイという漁具は川魚を射る弓矢のへら型の矢である。