半坪ビオトープの日記

良寛誕生地


『おくのほそ道』の道中に松尾芭蕉が「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句を詠んだ地として知られる出雲崎は、良寛が生まれ育った場所でもある。
良寛の生家、山本家橘屋は、出雲崎の名主であったが、その橘屋の跡に郷土史家佐藤耐雪の尽力と、日本画安田靫彦の設計により、大正11年(1922)に良寛堂が建てられた。

良寛の母の故郷佐渡島が、背景に浮かんで見えるように設計された浮御堂である。

堂内には、良寛が常に持ち歩いたという石地蔵をはめ込んだ多宝塔に、「いにしえにかわらぬものはありそみとむかひにみゆるさどのしまなり」の良寛の自筆の歌が刻まれている。

良寛堂の裏には、佐渡島を見つめる良寛の座像が心境を物語りなんとも感慨深い。

良寛は、宝暦8年(1758)出雲崎の名主橘屋山本家に長男・栄蔵として生まれたが、当時の敷地は今の倍はあったという。屋敷跡の説明板の左に立つ石碑には、良寛の父、以南の句が彫られている。
我がやとは羽音まて聞く千鳥哉 以南
旧姓新木以南(伊織)は、越後与板に生まれ、後に出雲崎の名主・橘屋山本家に養子になった。以南は、名古屋の俳人・加藤暁台に学び、国学にも通じ、尊王論「天真録」を残し、寛政7年(1795)に京都桂川で投身自殺をした。風雅を好み、北越蕉風中興の棟梁ともいわれたが、名主としては絶えず紛争・事件を起こし、隣町の京屋から追い落とされてしまう。若くして名主見習いとなった良寛栄蔵は、18歳で光照寺、玄乗破了の弟子となり、剃髪してしまう。
山本家が神事を司ってきたという石井神社がこの近くにあり、その裏には、良寛が剃髪した曹洞宗光照寺や、橘屋の菩提寺である真言宗の円明院もあるが、国上寺などの先を急いで省略した。

出雲崎から寺泊に向うとすぐ左手に、井鼻海水浴場が見える。正面には佐渡、右手には弥彦山が望める絶好のロケーションで、消波ブロックに囲まれ波も穏やかである。

弥彦山(634m)の手前右にこれから向う国上山(313m)があるのだが、一番右端の山だろうか、残念ながら見分けがつかない。