半坪ビオトープの日記

国上寺、大師堂


国上寺本堂の右裏手に国上山(313m)登山口がある。自然遊歩道を歩いて国上山山頂まで25分、山頂から蛇崩れという断崖脇を下って駐車場まで1時間の周回コースがあるので、時間が許せば楽しみたいところだ。雨乞山から弥彦山への縦走コースもあるという。
鳥居は、蛇崩れの隣にある大山祇神社のものと思われる。

登山口の右手には、大師堂がある。御影堂とも呼ばれる大師堂は、宝永8年(1711)の建造で、弘法大師像を祀っている。

本堂の建造中には本尊の阿弥陀如来・脇侍等を安置していたため御仮堂とも呼ばれる。

大師堂のさらに右手には、枯れて倒れかけた「弘法大師五鈷掛の松」がある。弘法大師が中国から帰国の際、三鈷と五鈷を投げたとされているが、三鈷は高野山の松に、五鈷が国上寺のこの木にかかり真言道場になったという。

五鈷掛の松の右手には、良寛座像が安置されている。出雲崎の名主・橘屋山本家に生まれた良寛は、幼名を栄蔵といい、4男3女の長男であった。18歳で名主見習いになったばかりで、突然出家の準備のため尻瀬の曹洞宗光照寺に身を寄せ剃髪してしまう。栄蔵22歳の時、光照寺に備中玉島の円通寺の住職・国仙和尚が訪れた。栄蔵はここで出家・得度し、良寛という法名を与えられた。良寛は国仙和尚の崇高なる人柄に感銘し円通寺で約12年間修業し、禅僧としての卒業証書「印可の偈」を受けた後、諸国行脚の旅に出る。寛政8年(1796)39歳で新潟に戻り、47歳の時国上山にある国上寺の五合庵に住み、10数年過ごす。その後10年は五合庵の麓の乙子神社の草庵に移り住む。
「国上やま苔の岩みちふみならし幾度われはまいりけらしも」と良寛は国上山を詠んでいる。

本堂、大師堂のある境内から、方丈講堂や庫裡のある境内に移るところに東山門がある。

東山門には関東では余り見かけない彫刻があった。獅子と思われるが、木鼻ではなく正面に大きな蟇股として、気迫を込めて寺域を守っている珍しい彫刻である。

この寺域で中心になっているのは、方丈講堂である。別称、客殿とも呼ぶ方丈講堂は、元文2年(1737)の建造で、千手観世音菩薩像を安置する。この講堂には、源義経が一時身を隠したと伝えられている。また、国上寺は、東山門前の寺号標に「越後一之寺 国上寺」とあったように、最盛時には県内外140余りの末寺をもつ本坊であった。その当時、国上寺には常に千人以上の僧兵がいて、講堂にある柱を人に見立て手裏剣を投げて日々訓練したといわれ、柱には無数の傷跡が残っている。

講堂の千手観音菩薩は、上杉謙信や長岡藩主牧野公も信心された霊尊と伝えられている。

大きな方丈講堂の左手に、大きな庫裡が建っている。庫裡の左手には西山門があり、そこから五合庵に下って行くことができる。