半坪ビオトープの日記

国上寺、五合庵


国上寺境内の西山門から五合庵へと下り始めると、右側に鏡井戸がある。国上寺に残る「大江山酒呑童子」絵巻に詳細が書かれているという。桓武天皇の子が流罪となりこの地へ来た時、従者の石瀬俊綱が子宝に恵まれなかったため信州戸隠山に祈願したところ妻が身ごもり十六ヶ月で男児が生まれ、外道丸と名付けた。乱暴者となった外道丸は国上寺に稚児として預けられたが、母が亡くなったことを聞いてひたすら仏道に励んだ。稀に見る美男子だった外道丸には近郷の娘達から恋文が山のように集まったが、開きもせずに修業に励んでいた。ところが外道丸から返事の来ないことを悲観した娘が己の命を絶ったことを知らされた外道丸が、恋文の詰まったつづらを開けると紫色の煙が立ち昇り外道丸は気を失った。その後自分の顔の異変に気が付き、井戸に顔を映すと悪鬼の顔に変わっていた。こんな姿になってはと、外道丸は修行僧の道を捨て数々の悪行を働くようになり、茨木童子などを従え、信州戸隠を経て、丹波大江山に住むようになり、酒呑童子と呼ばれるようになったという。

鏡井戸を過ぎて石畳を下ると左手に小高い丘があり、香児山の案内板が立っている。弥彦神社の祭神である天香児山命が最初この場所に留まり、二代目の天五田根命(アメノイツタネ)までここに鎮座したが、夏期に水が涸れるため、三代目の天忍人命の時に現在の弥彦神社の場所に遷ったという。

さらに薄暗い石畳の道を五合庵まで下っていく。

やがて右手に「良寛修行之地」の標識があり、その先に小さな五合庵が見えるところにでる。
五合庵という名は、良寛より100年ほど前、国上寺本堂を再建した客僧・万元上人が毎日米五合を給されていたことに由来する。

五合庵の手前に良寛の句碑が立っている。
堂久保登盤閑勢閑毛天久留於知者可難
「たくほどはかぜがもてくるおちばかな」良寛
この句は、長岡藩主の牧野忠精が長岡城下に良寛を迎えたいと要請した時に、良寛が悠々自適の境地を詠み、婉曲に辞退したという句である。だが、実際に牧野忠精が良寛を訪ねたのは、五合庵ではなく、後の乙子神社草庵時代なのであるが。
ちなみに、小林一茶に「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の句があるが、良寛は一茶の句を知らずに詠んだというのが定説とされている。

諸国行脚の後、良寛は寛政8年(1796)39歳で新潟に戻り、47歳の時この五合庵に住みつき、良寛の最盛期といえる10数年をここで過ごした。現在の草庵は、大正3年の再建であり、白木造藁葺、間口2間、奥行9尺、面積4.5坪である。

この庵については以下の歌も詠まれている。
「いざここに我が身は老いん足びきの国上の山の松の下いほ」良寛
冬の寒さはもちろん、夏の蚊にはかなり難儀したことが伝えられている。現在ここで、五合庵を案内しているボランティアの人も蚊の多さには苦労しているという。

五合庵の左手奥に万元和尚の墓碑が立っている。
万元和尚は比叡山天台宗の修行を終え、諸国行脚で佐渡に渡ろうとしたが嵐で断念し、旧知の国上寺良長住職を訪ねた。ところが本堂も焼け落ち、無惨に荒れ果てた境内を見て再建を願いで、30余年にわたり越後中を托鉢して浄財を集めて再建した。国上寺は小庵を建てて万元の労に報い、毎日米五合を給したという。しかし万元は、本堂完成の2ヶ月前、新潟巡錫中に病没したので、遺弟慧刀他有志により五合庵脇に墓碑が建立された。国上寺の麓、新信濃川右岸の「夕暮れの岡」に万元和尚の歌碑があるという。
「忘れずは道行きぶりの手向けをもここを瀬にせよ夕暮れの岡」万元

五合庵のすぐ下には本覚院と宝珠院があるが、左の道を進んで千眼堂つり橋を渡って朝日山展望台に向う。

朝日山展望台からは、眼下に広大な蒲原平野と大河津分水路、遠く越後三山までを望むことができる。